| 転校生 SS |
| 作 : Ophanim |
| 転校生S外伝1 精神の檻 |
-
巡回司祭ルロイ=レキシントンは懺悔室の扉を開いた。
小窓の向こうに尼僧姿になった女性がいる。
「司祭様、私の罪をお聞き下さい・・・。」
「良い心がけです。神はお許しになるでしょう。」
レキシントンに促され、女性は記憶を辿りながらぽつりぽつりと語り始めた。
窓の外を見ると高校生風の子供達がわいわいと騒がしく歩いていくのが見えた。
ヘレナ=ジョンストン、サンダースは忌々しそうに舌打ちをした。
まだ下校時間には間がある。
それなのにこうして下校してくるのは、つまり、彼らがさぼっているからなのだ。
「全く、私がいなくなると学校が乱れて仕方ないわ。」
ヘレナはため息混じりにそう愚痴った。
と言っても、愚痴を聞いてくれる人は今ここにはいない。
ふぅ〜〜っとため息が出る。
何もやることがない午後は退屈だ。
いや、実際には色々とやらねばならないことがあるのだ。
洗濯や炊事、掃除に庭の手入れなど、”主婦の日課”には終わりがない。
だが、家に長くいたことのない彼女には、それらの”何の変哲もない仕事”はもう億劫でなかなかやる気になれないのだ。
だったら、職場に復帰するためのリハビリを兼ねた読書でもしていればよさそうなものだが、それを許さない人間がここに一人いる。
「・・・レイチェル、またおむつ交換なの?」
ヘレナは一人娘のレイチェルがむずむずと身体を動かしたのを見て、うんざりしたような声を出した。
泣き声を上げない彼女の状態を知るのはとても難しい。
「全く、寝て食べて寝て食べて・・・ほんっと、良いご身分ね。私はあんたのメイドをするために仕事を休んでいるわけじゃないのよ?」
ヘレナはぶつぶつと文句を言いながら紙おむつの袋を取りに部屋を出ていった。
レイチェル=サンダースは口が利けないわけではない。
産まれたときはそれはそれは元気な産声をあげたものだった。
いつの頃からか彼女は黙ってしまった。
心配したグラントとヘレナは何度も彼女を医者に診せたが、医者の前ではその度泣き声を上げるのだ。
レイチェルが他の赤ん坊と変わっている点は他にもあり、時折身体を動かさずにじっと凝視していることがあった。瞬きも少なく身じろぎ一つしないので、すわ突然死症候群かと思って救急車を呼ぶと、そのタイミングを見計らったかのように身体を動かす。
結果として、両親がレイチェルを連れて医者に通う度に異常は認められない、という所見をもらって帰ることになる。
両親を嘲笑うかのようなそれらの行動は、レイチェルに対する愛情を薄れさせるには充分だった。
「ほら、これでもう今日は6回目よ?いい加減に自分で出来るように覚えたら?」
紙おむつを手に戻ってきたヘレナは、それを揺りかごの中に放り込みながら無茶な難題を出した。
レイチェルからの返答は当然無かった。
だが、返事は、あった。
「な、何よ?」
絶妙のタイミングで発生したレイチェルの凝視に、ヘレナは思わずたじろいだ。
彼女が不当な要求に異議を訴えているように感じたのだ。
「なによその態度は?私は主任昇格目前だったのに、それを棒に振ってまでこうしてあんたのために奉仕しているんじゃないの。あんたさえ産まれなければ、生活だってもっと楽になるはずだったのに・・・。ちょっとは協力しなさいよね。」
ヘレナはそう取り繕いながら、レイチェルのおむつを交換した。
手早く交換を済ませ、汚れたおむつを手にそそくさと部屋を出る。
口癖になっていた”あんたなんか産むんじゃなかった”という愚痴は、口の中に押し込めた。
レイチェルの無言の抗議が怖かったからだ。
ヘレナの心に”八つ当たりをしている”という後ろめたい感情があるからこそ、そう感じられるのだ、と理解していても、その余りのタイミングの良さに『本当は判っているのではないか?』という疑念がヘレナから消えることはなかった。
子育てのストレスは、ヘレナの心を確実に蝕んでいた。
ヘレナ=ジョンストンの結婚は、彼女を知る者達の間で驚きをもって報じられた。
現役の敏腕教師だった彼女は、ひょんなことから保険会社のエリート調査員、グラント=サンダースと、同僚が”奇蹟だ”と表現した電撃的な結婚をした。
仕事一筋に生きてきて、結婚にも恋にも興味の無かったヘレナが、同僚以外に出会いが少ないと言われる職場での恋愛結婚をしたのだから、奇蹟という言葉はあながち大袈裟でもないだろう。
しかも、結局同期で一番最初に結婚することになったというおまけつきだ。
グラントは優秀な保険調査員で家を空けることが多かったが、結婚しても仕事を続けたいというヘレナの意志を尊重してくれたのだ。
互いに家にいる時間は短かったものの、幸福な家庭が築かれていた。
二人の貯蓄で家も買った。
家庭を構成する要素が次々揃っていく中、彼らに子供が出来るのは自然な流れだったかも知れない。
が、時期が早すぎた。
ヘレナはまだまだ子育てよりも仕事に打ち込みたい盛りだったし、グラントも自分が仕事を休んでまでヘレナにかかる負担を軽減しようという気はなかった。
加えて、レイチェルはただでさえ少ないヘレナの母性本能をくすぐるほど可愛気のある赤ん坊ではなかった。
そんな中、その出来事は起こってしまった。
その日、グラントはいつもよりも遅く帰ってきた。
帰りが遅れるとの連絡が無かったため、待っていたヘレナの苛々は頂点に達していた。
「遅くなるなら一言連絡くれればいいじゃない。電話一本で済むでしょう?」
喧嘩腰で投げつけられた言葉を、グラントは如何にもうるさそうに聞き流した。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「うるさいなっ!ちょっとは静かに出来ないのかっ!?」
グラントはヘレナがこれまで聞いたことがないような怒鳴り声を上げた。
本来ならば怯んだであろう夫のその大声に、ヘレナの頭脳は逆に混乱を加速させた。
「静かにって、私が毎日どんな思いで家にいるか判ってるのっ!?」
「ああ、判っているとも。家で一日中ごろごろ横になってのんびり過ごしているんだろう?」
グラントは怒り出したヘレナに対抗して、逆に冷静な声で皮肉った。
「なっ・・・あなた、家事がどんなに大変か判ってるのっ?炊事に洗濯、掃除・・・。」
「判るとも、判るとも。誰かが大変だ大変だって騒いで、最新式の全自動食器洗い機やら全自動洗濯乾燥機やらAI掃除機やらを買い込んだからな。どのスイッチがどれだったかを覚えるのは、そりゃあ大変だろうさ。」
余りにも皮肉に満ちたグラントの態度は、普段の柔和な彼からは明らかに違っている。
何が彼をそうさせているのか、その原因を読みとるには、ヘレナは余りにも逆上していた。
「だったら代わってみる?私が毎日、この子の気持ちの悪い視線にどんな思いで耐えているのか判ると思うわ。」
「ああ、それは良い考えだ。」
出来るわけがないだろう、という答えを期待していたヘレナは拍子抜けがして言葉に詰まってしまった。
グラントはヘレナ以上に仕事に精を出していたはずなのに・・・。
「え・・・?良いの?」
「良いもなにも、他に選択肢はないだろう。俺は首になったんだからな。」
自嘲気味にそう言い放ったグラントの口許には笑みが浮かんでいた。
彼自身に問題があったわけではない。
自ら集めた資料に基づいて取締役に諫言した結果、うるさがられて首になっただけだ。
そこまで優秀なら他でもらってもらえるだろう、と言う取締役の捨て台詞は一見すると突発的に出されたように見えて、しかし、周到に練られたものだったようだ。
グラントは確かに優秀な調査員なので、他の会社に流出すれば会社にとって大きな痛手になることが目に見えている。だから、ある程度有能と認められた調査員は誰しも、もともと再就職が出来ないように有形無形の契約の網が幾重にも張り巡らされ、目に見えない圧力で雁字搦めに縛られていた。念の入ったことに、それらは辞職して初めて気がつくように、文章中に巧妙に隠匿されていたのだ。
やるせなさで自暴自棄になっていた所に、帰宅して最初に聞いた言葉が喧嘩腰の挨拶では、如何に温厚なグラントでも腹を立てるのは無理からぬことだった。
しかし、ヘレナも大人しく引き下がるには手遅れなところまで来ていた。
「あらそう。それはそれは随分優秀な調査員だこと。」
それがスイッチだった。
家に戻ると、ヘレナは家中の窓を開けて換気する。
さもないと酒臭くて息が詰まる。
ヘレナはため息をついた。
物事が上手く行かなくなるとはこういうことなのか・・・。
ヘレナが戻った職場は、彼女がかつて知っていた厳しい職場ではなくなっていた。
教師の力は著しく制限され、生徒の投票で職を失う危険性の高い不安定な職場に変わっていた。
彼女が家の窓から見ていた生徒達の姿は、さぼっていたわけではなく、彼らが獲得した「自由な時間」の過ごし方だったのだ。
無力感と焦燥感とが相俟って、ヘレナの心にストレスが積もっていった。
加えて、今は家に戻ってきても心が安らぐことがない。
仕事に打ち込んでいたエリートほど挫折に弱い。
すっかり情熱を失ったグラントは毎日家で酒浸りになっていた。
結果として、レイチェルの世話もヘレナがやることになる。
ヘレナの負担は休職して家にいた頃よりも増大し、ヘレナの不満はこれ以上ないほど募っていたが、今は数ヶ月前より随分ましだ。
今まで離婚に踏み切らないでいたのは、彼女が離婚を悪とする倫理観で育っていたからに過ぎず、その価値観も辛い現実の前に崩れ去り、今は離婚調停の真っ最中。
その調停の経過が良好なので、彼女の機嫌は幾分増しなのだ。
(ま、酔っぱらい相手の訴訟なんて簡単だけどね。)
レイチェルの親権はグラントに譲る代わりに、財産の取り分を多くする。
表面的には親として厳しい選択だが、気持ちの悪い娘をグラントに押しつけることが出来て、ヘレナとしては一石二鳥だ。
(あら?)
ヘレナはレイチェルの汚れたおむつを換えようとして、その異変に気付いた。
レイチェルのおむつは新しいものに変わっていた。
(飲んだくれのくせに、どういう風の吹き回しかしら?)
グラントもやはり父親だったと言うことか?
ヘレナはそう判断して、上機嫌でレイチェルを抱き上げた。
瞬間、レイチェルの顔が苦痛に歪んだ。
「・・・この子は・・・そんなに私が嫌いなのっ!?」
ヘレナはかっとなって折檻しようと手を上げた。
彼女の手が離れると、レイチェルはほっとしたような顔をする。
その表情に思い当たる節がある。
ヘレナは振り上げた手を叩き付ける代わりに、レイチェルの服をめくってみた。
「・・・あいつ・・・。」
そこには、既に折檻の痕があった。
よくよく観察してみると、背中や首にも無数の傷が付いている。
何をされても声を上げないレイチェルは格好の憂さ晴らしになるのだろう。
不意に、ヘレナの心に娘に対する愛情が産まれた。
夫の理不尽な仕打ちをきっかけに、外敵による暴力から子供を守ってやらねばらならないという母性本能が目覚めたのだ。同時に、子育てのストレスに耐えかねて、その捌け口にしていたことを詫びる気持ちになった。同じストレスを感じていても、自分はここまでしなかったという自負もある。
「頭とか足とか・・・検査してもらわないと行けないわね。」
ヘレナはそんな独り言を言った。
だがそれは、独り言にならなかった。
ヘレナの目の前で、レイチェルが首を横に振った。
「私は大丈夫です。ちゃんと話せるし耳も聞こえてます。だからもう検査しないで下さい。」
その衝撃はヘレナの心に恐慌を来たさせるには充分すぎた。
聞こえていた。
聞かれていた。
知られている。
自分の愚痴を。
自分の醜い部分を・・・。
「これは驚いた。」
突然、部屋の中に興奮したグラントの声が響き渡った。
「グラント、いつの間に・・・。」
「レイチェル、お前はもう話せるのか?」
グラントはヘレナを無視するかのような冷淡さでレイチェルに話しかけた。
レイチェルはそれに応じてゆっくり頷いた。
まだ一歳になったばかりの子供が、会話を理解した上で適切で完璧な英語を話している。
それはヘレナには脅威であり、グラントには天恵だった。
「そうか・・・そうか、わははははっ!」
グラントは狂ったように笑い出した。
彼が何を考えているのか迅速に嗅ぎ取ったヘレナは、レイチェルを庇うように抱き上げた。
「駄目っ!駄目よっ!あんた、レイチェルをマスコミに売りつける気でしょう?」
「ヘレナ、お前はもうレイチェルの母親ではないんだぞ?」
急速にかつての理性を取り戻したグラントは冷徹に言い放った。
書類上、彼女達はもう親子ではない。
「ま、まだ書類は完成していないわ。」
「それは俺のサインがないからだ。お前のサインは既にあるだろう?」
「だからって・・・。」
「醜いなぁ、レイチェルの才能を知って今更母親ぶる気か?」
グラントの言葉に、ヘレナは思わず唇を噛んだ。
同じことを言い返してやりたいのだが、レイチェルと一緒にいた時間に投げつけていた自分の言葉が自分の立場を悪いものにしている。
酒に逃避して行った自らの所業に罪悪感を感じないグラントと、敬虔な宗教的道徳観と相俟って後ろめたさから逃れられないヘレナとの差が悪い方に出た。
グラントがさらさらと流暢に書類にサインをする様子を、ヘレナは唇を噛みながら見つめることしかできなかった。
「レイチェル=サンダース。これでそこにいる女はお前とは一切関わりのない人間になった。これからそいつを”母親”と呼ぶことはまかりならん。」
「判りました。」
事務的に答えるレイチェルの声は、いつもヘレナの心に大きく響いた。
だが、今日のそれはいつものように怒りを漲らせるのではなく、悲しみと愛情を膨らませる方向に働いた。
「お願い・・・。その子を・・・。」
ヘレナは懇願するように身体を折った。
その姿は正気に戻ったグラントに打算を働かせるには充分だった。
「ふむ、そうだな・・・。昔の誼で、レイチェルの家庭教師としてなら住み込みで雇ってやるぞ。勿論、無報酬だがな。」
ヘレナにはその提案を受け入れる以外に選択肢がなかった。
こうして、離婚した後も同居する、奇妙で緊張感に満ちた家族が出来上がった。
そしてその関係は、あの交通事故が起きるまで8年余りも続くことになったのだった。
「その罪滅ぼしに、こうして神に仕える所存で参りました。」
「良い心がけです。」
そうは言ったものの、レキシントンの心は晴れなかった。
懺悔を聞いた後はいつもそうだ。
神に仕える彼らには、懺悔で聞いたことを他人に伝えることも、それを元にアドバイスを送ることも出来ない。
しかも、レキシントンはまだ巡回司祭だ。
教区の中で予定の空いた教会にお呼ばれしていく彼にとって、何かの機会にちょっとした助言をすることすら出来ない。
まして、このケースは解決が難しい。
(・・・まぁ、解決するのは、私ではない。)
レキシントンは自らの力の限界を見極めることのできる人間だった。
出来ないものまで全て”神の導き”に頼っていい加減な説教をするのは卑怯だと思っている。
そう言えば、彼が以前に巡回した教会に、ちょうど今の話と年の頃が似たような女の子がいたことを思い出した。
そこでその子の担当になれば何かが変わるかもしれない。
「シスター・ヘレナ=ジョンストン。あなたには聖セバスチャン教会で、ある孤児の教育担当をしてもらおうと思います。その子は今、担当シスターから見放されているんですよ。」
ヘレナの顔が驚いているように見えた。
怪訝そうに首を傾げるレキシントンに、彼女は恍惚の表情で答えた。
「は、はい。謹んでお受けいたします。・・・実は、その私の娘が洗礼を受けたのも、聖セバスチャン教会なんです。」
レキシントンは何かとても大きな力が働いたような気がして、胸がざわめくのを感じていた。
Mail or Back to Index