転校生 S
作 : Ophanim
Grand Epilogue 7






 「基本は同じ、みんな同じようなことを言っているっていうのが判ってもらえればいいんです。特に、プリンツさん、ヘレナさん、あなた達は敬虔なキリスト教とのはずです。無宗教の私達を”生活の規範がないのに生活できることが理解できない”と常々批判しています。それなのに、こうして解り合うことが出来ないでいる。」

 シンジの言葉に、ヘレナやプリンツだけでなく、全員が俯いた。

 その様子を見ながら、シンジは再び口を開いた。

 「結局の所、概念は国境を越えないということです。もっと正確に言えば、言葉や文字は国境を越えない、ということでしょう。共通の概念はある。にもかかわらず、理解し合うことが出来ずにいる。それは、言葉や文字が、『概念を翻訳するもの』としては不適切だ、ということです。」

 シンジが言い終わるや否や、ヘレナとプリンツは顔を真っ赤にして立ち上がった。

 「傲慢な!聖書の言葉を冒涜するおつもりですか?

 「そんなことはないだろう?」

 さっきの本質に比べれば些細なことだと思っていたことへの敏感な反応に少し驚いたが、シンジは狼狽えることなく反論した。

 「いえ、言葉と真意がずれることはあり得ることだ、と言っているんです。ヘレナさん、あなただって知っているはずでしょう?さっき御自分でそう言ったじゃありませんか。」

 『離婚は悪』と取れる聖書の言葉は、時代の価値観に警鐘を鳴らす言葉だった。

 が、いつかその”言葉”だけが一人歩きし、いつしか『離婚を許さず』という”規範”となっていた。

 神の真意は司祭がヘレナに解説したところに近いはずだが、ヘレナに的確な指導をした司祭をこそ誉めるべきで、こうした誤解は多く残されているのだろう。

 シンジに諭されたヘレナは黙ってしまった。

 その沈黙に力を得て、シンジはテーブルについている面々を見回してから、再び口を開いた。

 「今言ったように、言葉が真意と異なってしまうのは、状況が違ってきてそうなることもありますし、異なる言語の中で適切な翻訳が無いことだってあります。キョウコさんもそれで苦労しましたよね?」

 キョウコは苦笑しながら頷いた。

 日本語は同じことを意味する言葉が豊富で、しかもそのそれぞれが微妙なニュアンスの違いを持っている。

 対応するドイツ語が一つしかない場合、意図するところが正確に伝わらず、ひどい場合には喧嘩の元にすらなっていた。

 まして、本来は古代ヘブライ語で語られていたであろう言葉を各国の言葉に翻訳したりしたら、僅かなニュアンスの違いまで全て伝わっているかどうかは甚だ疑問だ。

 「それは判ったわ。だけど、結局何が言いたいのよ?」

 自分への援護射撃と期待していたアスカは、いつまで経っても先に進まないシンジの話に焦れてそう言った。

 シンジはにっこり微笑みながら頷いた。

 以前のアスカなら『はっきりしなさいよっ』などと怒鳴りつけているところだろうが、最近のアスカは本当に落ち着いている。

 「そうだね。え〜と、つまり、”良い言葉”に従って生きていても、必ずしも”良い生活”を送っているとは言えないってことです。」

 シンジの言葉に、はっとなって顔を上げた人物が二人いた。

 アスカは思い当たる友人の顔を盗み見た。

 その母親も顔を上げたことで、その”生活の規範”がどんなものだったのか想像がついた。

 ”教科書”に従うことのみを是とした、無難ではあるが抑揚のない生活。

 新しいことを考えることや、疑問を唱えることを禁じる習慣。

 ”忠実”と”盲従”とを取り違えた”敬虔なる信徒”のそんな生活は、恐らくはその母の代から始まっていたことだろう。

 類い希なる才能を秘めた稀代の天才少女をそんな母に授けたのは、あるいは神の警句だったのかもしれない。

 だが、彼女は”教科書通り”に、その警句を無視した。

 アスカがレイチェルをキョウコに引き合わせなかったなら、折角の才能は埋もれてしまったに違いない。

 レイチェルの能力は、規範の中で従順に生きていく上でも、この上ない力を発揮したであろうから。

 それでも、長年そこに生きてきた人間にはそこを離れることは不安なようだ。

 沈黙を破ったヘレナの言葉は、

 「そんなことは・・・ないです。」

という、拒絶の言葉だった。

 我慢の限界に達して、勢いよく立ち上がったアスカを、シンジが静かに押し止めた。

 「何度も言うようですが、言葉や文字にされた概念は、国境を越えません。例えば、この間演奏に行ったパブで、イスラム教徒の方に親切にされた方がお礼を言ったら『これも最終的にはアラーのためにやったことですから』と答えられ、とても険悪になったことがありました。『教義で仕方なく人助けとはけしからん』などと怒っていらっしゃいましたが、イスラム教徒の方々にとっては、教義こそが生活の規範であって全く悪気はありません。ですが、そこを自分の言葉で理解しないと理解し合うことの出来ない難しさがあります。」

 全ての国々の文化や習慣に精通することは、並大抵では出来ない。

 殊に宗教に関しては、なまじ自らが信じる宗教に忠実であればあるほど、宗教研究家でもない限り、他の宗教を理解することが困難になる。

 「ですが、芸術には国境がありません。それは、芸術が人の感性に直接訴えるからです。」

 絵画は時代を超え、音楽は国境を越える。

 そこから感銘を受けるために、その背景にある文化や習慣を前もって理解する必然性は少ない。

 勿論、視覚や聴覚を通じて直接心に響く芸術においても、作り手の思惑を受け手が全て完全に受け取ることは難しい。

 だが、だからこそ、”言葉で言い表せない感動”を、全く異なる言語体系の人間同士で共有することが出来る。

 それは人間が備えている中で最も素晴らしい機能の一つといえる。

 もっとも、その感動を何とか伝えようと言葉にした瞬間に失われてしまうのだが・・・。

 「ヘレナさん、あなたは贖罪を果たした、と仰いました。それはあなたの価値観で処理されたものです。そして、アスカが謝罪を求めるのは、アスカの価値観に合わないからです。それをどうこう言うつもりは、ありません。」

 そんなシンジの言葉に、アスカは、両方に良い答えをするために、自分で意見をまとめられなくなっているのではないか、と疑いの視線を送った。

 だが、結局は何も言わなかった。

 そこに、自信に溢れる恋人の瞳を見つけたから・・・。

 「ただ、もしも本当にあなたに少しの後悔も無いのなら、あの曲でここに入ってくることも、あんなに涙を流すこともなかったと思うんです。」

 ヘレナの身体が電流に打たれたようにびくりと震えた。

 その様子を見たシンジは慌てて説明をつけ加えた。

 「すみません、責めている訳じゃあないんです。僕はただ、あなたの心にわだかまっている、その重荷を軽くしてあげたいだけで・・・。」

 「いえ、・・・その・・・。お話はよく判りました・・・。」

 ヘレナはシンジの言葉を途中で遮ると、小さく何度も頷いた。

 周囲が見つめる中、瞑想するように目を閉じていたヘレナが、小さく口を開いた。

 「レイチェル・・・今更かもしれないけど・・・私を・・・お母さんを、許してちょうだい。」

 ヘレナの呼びかけに、レイチェルはすぐには答えなかった。

 首を傾げて、困ったような顔をして、俯いて・・・。

 (あんな聞き方をしたら、レイチェルは”はい”ってしか答えられないんじゃないかしら・・・?)

 アスカがそんな不安を抱き始めた、ちょうどその時。

 「・・・その・・・それじゃあ、私、”お母さん”って呼んでも良いんでしょうか・・・?」

 充分な時間をかけて発せられたその問いかけは、レイチェルが機械的に『赦し』に応じたわけではないことを示す、何よりの証拠だ。

 「勿論・・・良いに決まってます。あなたは私の娘ですから・・・ああ、神様・・・。」

 ヘレナは感激で涙を流した。

 その様子を見る方でさえ大きな感動に包まれているのだから、当人は卒倒しかねないほどだっただろう。

 アスカは興奮に酔ってふらつく足をもどかしく思いながら、どうにか電話までたどり着いた。

 「店長、ピザ遅いわっ!!もう何でも良いから、10人前でも20人前でも、あるだけ持ってきて!5分で来てよ!

 7分後。

 店長自ら在庫を抱えて部屋に駆けつけたとき、そこにかつて重苦しい沈黙があったとはとても信じられないほど穏やかで幸福そうな空気が満ち溢れていた。



 「はい、これ、お弁当ね。」

 アスカは一切れ毎に丁寧にラップにくるんだピザを手渡した。

 「うふふ、昨日の夜からずっとこれですね。」

 レイチェルは楽しそうに微笑んだが、プリンツとヘレナは顔を見合わせてやれやれ、とため息をついた。

 昨夜アスカが勢いに任せて頼んだピザは、その時出来ていた分を全て持ち込んだために膨大な数になっていた。

 出前の遅れを詫びる店長の好意もあって、数の割には安くあがったのが救いだったが、6人、しかもうち4名が女性という構成の中では到底食べきれないものだった。

 ”食べたがったのはレイチェルなんだから”と、半ば責任を押しつけられる形で、結構な量がレイチェルの口に押し込まれたが、それでもまだかなりの量のピザが残され、今朝の朝食と車の中での弁当になったのだ。

 ヘレナは今日ボストンに帰る。

 プリンツの車は最高でも5人しか乗れないので、見送りに全員で行くことは不可能だ。

 そこで、プリンツとレイチェルが一旦ヘレナを空港まで送り、その間に残った者が部屋の片づけを進めることにしたのだ。

 昨夜の話の中で、レイチェルもベルリンに戻ることになったので、夏服や当座使わないものは全て車に積めてベルリンに持ち帰ってもらうことにした。

 「すみません、皆さん。お疲れでしょうに・・・。」

 レイチェルは深々と頭を下げた。

 ベルリンでお世話になる上、自分の荷物まで片づけてもらっては申し訳ないから、という理由で、レイチェルは残って一緒に部屋を片づけると主張したのだが、最終的にはみんなの薦めに従って空港に行くことにしたのだ。

 「いや、折角仲直りしたんだから、今までの分を取り戻せば良いんだよ。」

 「そうね。ヘレナさんも反省してるみたいだし。」

 アスカは、横目でちらっとヘレナの方を見ながらそう言った。

 ヘレナはレイチェルと背中合わせに、神妙な顔で俯きながら出発を待っている。

 アパートの近くに車を停めることが出来なかったので、プリンツが駐車場まで車を取りに行っているのだ。

 いつ来るか判らないものを待つのは、どんな場合も難しい。

 新しい話題を持ちかけるべきか、今の話題で話を繋ぐべきか逡巡する間の、奇妙な沈黙が場を支配する。

 その沈黙の中、レイチェルは難しい顔をして二人をじっと見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。

 「あの・・・。」

 「ん、なぁに?レイチェル。」

 アスカは明るい笑顔を浮かべながら応じたが、その表情はすぐに真剣な顔に変わった。

 レイチェルの表情にただならぬものを感じたからだ。

 「皆さん、もしかしたら勘違いなさっているかもしれません・・・。」

 心苦しそうにそう切り出したレイチェルの顔は、昨日の会談の時以上に深刻だ。

 「ど、どういうこと?

 アスカの頭の中を、昨日の情景がぐるぐるとめぐった。

 どの場面で間違えたのだろう?

 どの程度の勘違いなのだろう?

 何が違っていたというのだろう?

 「その・・・私、母を恨みに思ったことは一度もありませんよ。」

 身体を少し捩りながら、言い難そうにそう告白する。

 その背後で、ヘレナの身体がぴくりと硬直する。

 「え・・・?虐待されたんじゃないの?」

 アスカはそう言ってしまった後で、大慌てで口を塞いだ。

 当人を前にしていることを思いだしたのだ。

 「それは父です。それと、シスター=ダニー=フーバー。」

 レイチェルはきっぱりとした口調で言い切った。

 その言葉が余りにはっきりしていたので、逆にヘレナがレイチェルに手を上げなかったことを印象づける結果となった。

 「じゃあ、ヘレナさんは何も謝ること無かったの?」

 シンジは驚いてそう訊ねた。

 子守歌への反応からは、何かやましいことがあると思われたのだが・・・。

 「いえ、私の罪も同じようなものです。」

 ヘレナは素早く振り向いて、娘を庇うようにそう言った。

 それから、自分が幼いレイチェルに『産まなければ良かった』だとか『あんたのせいで仕事にいけない』などと愚痴ったことを、沈痛な面持ちでぽつりぽつりと告白した。

 「ですから・・・あるいは、この子にはもっと憎まれていてもおかしくないと・・・。」

 「そんなことありません。」

 レイチェルはさっきよりもなおきっぱりと答えた。

 今度はレイチェルが母を庇うようにヘレナの前に出ると、きりっとした表情で静かに口を開いた。

 「母は、確かにそのような愚痴をこぼしていましたが、それが本心でないことも判っていました。何故って、私に何かあると血相を変えてお医者様に連れて行ってくれたり、寝ずに看病をしてくれたりしていましたから。」

 ですが、とレイチェルは言い淀んだ。

 それからしばらく、地面とヘレナの顔を見比べた後、再び彼女が口を開くまでの間、誰も口を挟む者はなかった。

 「ですが・・・。父が私に『母と呼ぶな』と命令した時、修道院で再会した時、私が出発する時・・・。どこかで、『母と呼んでも構わない』と言っていただければ・・・。」

 その”命令”を当人が出さない以上、当時のレイチェルに”母”と呼ぶ道はない。

 「もしかしたら、小さかったときに聞いたあの言葉は本心だったのかもしれない、って思って・・・、私は嫌われているかもしれないって・・・。」

 その方が辛かった・・・。

 涙で掠れた声は言葉にならなかったが、聞く者全てに伝わった。

 ヘレナはレイチェルをしっかり抱いて、小さく何度も頷いた。

 ごめんね、と・・・。

 言葉の要らないそんな風景を乱したのは、言葉を語らぬ文明の利器だった。

 無粋なクラクションが5人の心を力任せに現実に引き戻す。

 「やぁ、すまない。待たせてしまった。」

 プリンツは車の窓を開けてそう謝った。

 呑気な口調が尚更神経を逆撫でする。

 「パパの馬鹿っ!ちょっとは空気を読んでよねっ!

 アスカは髪の毛を逆立てんばかりにして怒鳴った。

 が、それを聞いたプリンツはますます目を丸くした。

 「え?空気が何だって?排気ガスのことか?」

 「・・・も、もうっ!知らないっ!

 アスカは、シンジの言う通り、確かに言葉は国境を越えないことを、身をもって納得していた。




Grand Epilogue 8 に続く




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