転校生 S
作 : Ophanim
第30話 天使の翼


 

 先に我に返ったのはシンジだったようだ。

 アスカが気がついたときにはシンジは既に立ち上がっていたからだ。

 (あっ!

 アスカが止める間もなく、シンジはレイチェルに近づいていく。

 ヨーロッパの挨拶は握手だが、男性と女性の場合、男性側から握手を求めるのは不作法とされている。

 だが、逆に女性側が近づいてきた男性に会釈も握手も返さず、何のアクションも起こさないのもまた不作法とされているのだ。

 これまで研究室に来た客の前で何度も繰り返された、黙ったまま彫像になってしまうレイチェルの姿が再現される・・・と、アスカは思っていた。

 「初めまして。碇シンジです。」

 ぴくりとも動かないレイチェルの前で、一瞬差し出し掛けた手を胸に当てたシンジがぐっと頭を下げた。

 つられてぴょこん、と小さく会釈を返したレイチェルの顔には、いつの間にか表情が戻っていた。

 「あ、え、そ、その・・・は、初めまして・・・?

 (驚いた・・・。)

 少し形は違っていたが、レイチェルにとって初めてと言っていいほど『初対面の相手との普通の出会い』を果たしたことになる。

 「持ちますよ。」

 シンジはもじもじとしているレイチェルから、静かに買い物袋を引き取った。

 レイチェルに気を配りながら見ていたアスカには、シンジが彼女の手に触れないように慎重に荷物を受け取ったのがよく判った。

 (なんだか・・・慣れてる?)

 「え!?あ、あぁ・・・えぇ・・・と・・・あの・・・。」

 レイチェルは慌てて追いすがろうとして、決まり悪そうにまた立ち止まった。

 近寄ってきたアスカの背中に素早く隠れる。

 まるで小さな子供がそうするときのように、アスカの左腕に両手で抱きついて、怖々とシンジを窺っている。

 アスカは小声でレイチェルにお礼を言ってみるように指示を出した。

 「あの・・・ありがとうございます・・・。」

 「いえいえ。アスカ、これどこに置けばいいのかな?」

 「あのぉ・・・冷やさないといけないのは冷蔵庫、根菜は収納に・・・お願いできますか?」

 レイチェルは相変わらずアスカの背に隠れながらも、初対面のシンジとの会話が出来ている。

 及第点とは言い難いが、失格というのも酷か、と思われる程度には振る舞っていると言える。

 だが。

 「わ、私っ!着替えてきますっ!

 レイチェルは突然そう言って部屋に逃げ帰ってしまった。

 緊張が頂点に達したのか、それとも他に理由があるのか・・・。

 (でも、今までだったら何も言わずに飛び出していっていたから、進歩なのかもしれないわ。)

 アスカは敢えてレイチェルを追おうとせず、シンジと一緒に食料をしまうことにした。

 「凄いわ、シンジ。レイチェルって、人見知りするから、初対面であんなに話したり出来ないのよ?」

 アスカはジャガイモを床下にしまいながらそう言って微笑んだ。

 これまでに見たことのないレイチェルを見ることが出来て本当に嬉しい。

 「そう?僕は別にいつも通りにしただけだよ?色々なお客さんが来るからね。」

 中にはそういう人だっているよ。

 さらりと答えるシンジの顔は、すっかり大人の表情をしていた。

 それでいて彼の表情には少しも力みが感じられない。

 無論、生物学上、まだ少年として扱われる彼の顔は幼いままだ。

 だが、その顔を見れば”大人と一緒に扱って欲しい”などと言わなくても、周囲が彼を”大人”と認めるだろう。

 信頼できる、と考えるだろう。

 (何だか羨ましいな・・・。)

 アスカの理想像がそこにある。

 同時に、そんな彼が自分一人を想ってここまで来てくれることに、多いに自尊心を満たされる。

 自分は愛されている。

 それだけで自分に自信が持てる。

 アスカは身体が軽くなったような気がした。

 同時に心がこれまでにないほど静穏になっていく。

 狭窄していた視野も徐々に広がってゆき、世界が明るさを増していく。

 それはあたかも心地よい音楽を聴いているかのようだ。

 アスカはシンジの顔を見つめた。

 「ん?何?」

 照れるでもなく、構えるでもなく、自然に微笑むシンジがいる。

 (もしかしたら、一流の音楽家が持つっていう、独特の雰囲気を持ち始めたのかも。)

 アスカは今、そんなシンジをとても誇らしく思っていた。



 どたばた、と騒々しい音がしたかと思うと、レイチェルが鞄を持って部屋を飛び出してきた。

 「あら、レイチェル、どこかに出かけるの?」

 アスカは不思議そうにレイチェルを見つめた。

 彼女が先刻宣言したように、確かによそ行きの服に着替えは済ませている。

 だが、一体どこに出かけるというのか?

 「そ、そのぉ・・・私、お邪魔だと思うので、今日は他の所に行きます。研究室に泊まっても良いですし・・・。」

 レイチェルは俯き加減でアスカを見つめた。

 その瞬間、アスカの脳裏に稲妻が走ったような感覚がする。

 (えっと〜〜・・・あははは・・・。)

 アスカはこの光景に見覚えがある。

 もっと正確に言えば、”身に覚えがある”。

 ドイツから日本に飛び出すとき、アスカがプリンツの前で取った行動にそっくりだ。

 (そっか・・・あたし、あの時、止めて欲しかったんだ・・・。)

 アスカはあの頃気がつかなかった自分の本心にようやく気がついた。

 同時に、レイチェルが本心では何を望んでいるのか、対応を間違えると何をしでかしそうなのか、手に取るように判った。

 本当にレイチェルがそう思っているなら、もっとこっそり出ていけば済むことだ。

 敢えて仰々しく着替えたり音を立てたりして気を引くのは、”止めて欲しい”のだ。

 そして、対応を誤ればあの日アスカ本人がやったように飛び出すだろう。

 だとすれば簡単なことだ。

 「嫌よ、レイチェル。それじゃあたしが追い出したみたいじゃない。それに、一緒にケーキ食べるって約束したのは嘘だったの?」

 アスカの思惑通り、レイチェルはその言葉で項垂れて動きを止める。

 他愛もない。

 解答集を見ながら問題を解いているようなものだ。

 これ以上楽なものはない。

 アスカは思わず苦笑した。

 ・・・そして、それが落とし穴だった。

 その笑い顔を見たレイチェルは突然玄関に向かって駆けだした。

 心を見透かされた、と感じてどうしようもなく恥ずかしくなったのだ。

 アスカはレイチェルの行動を見て初めて、自分がそうされたらどう思うかに思い至り歯噛みしたが手遅れだ。

 「行かないでっ!!

 だが、その声が届く前にレイチェルの姿が戸外へ消えていた。

 アスカの声は開かれた玄関の向こう、虚空へと虚しく放られただけだった。

 小雪が舞い始めた夜の街は、どこまでも冷たく見える。

 アスカはレイチェルを追うことも出来ず、その場にへたり込んでしまった。

 「どうしたの?アスカ?」

 キッチンからシンジの声がする。

 シンジが少し冷蔵庫の整理をさせてくれ、と申し出てきたので任せておいたのだ。

 もっとも、レイチェルが普段から綺麗にしていたし、ここ数日のアスカの不調のせいで買い物も出来ないでいたから、それほど時間がかかるとも思えなかったのだが。

 シンジは床に座り込むアスカを気遣って、自分も傍らに座って抱き寄せた。

 「あたし・・・失敗したかも・・・。」

 アスカはがっくり項垂れてシンジの胸に顔を埋める。

 シンジの胸は広く、暖かく、優しかった。

 だが今は、自分一人がその幸福を甘受していることに大きな罪悪感がある。

 「え?失敗って、どういうこと?」

 シンジはアスカを優しく抱きながら首を捻った。

 扉が開かれていて、靴がない。

 レイチェルとの間に何かがあったらしいことは判るが、それなら”失敗”とは追わないで座っていることだろうか?

 走って追いかければ済むことではないのか?

 「あたし、あの子の将来を駄目にしてしまったかも・・・。あたしより優秀なのに・・・あたしのせいで・・・。」

 アスカは自分とレイチェルとの関係を簡潔に説明した。

 レイチェルの過去、レイチェルが自分で自分の進路を決められないこと、アスカの指示で研究が進んでいること・・・。

 シンジはそのアスカの説明を表情を変えることなく聞いていた。

 「だから、あたしの一言であの子の将来が良くも悪くもなるの・・・。」

 反応がないシンジを少し焦れったく思いながら、アスカはもう一度”失敗”の理由を繰り返した。

 だが、シンジは一層渋い顔を作る。

 アスカが焦れてシンジを揺さぶると、うんざりしたような表情のまま、シンジは遂に口を開いた。

 「アスカ、何が優秀で何がそうでないか何て、一つのことじゃ決められないし、そうするべきじゃないと思うよ?安易にそんな風に考えるのは”アスカは”楽なのかもしれないけど、少なくとも、人が優秀かどうか何て軽々しく口にして良いものじゃないと思う。」

 アスカは目をぱちくりさせてシンジを見た。

 シンジが何を言っているのか判らない。

 「どうして?論文を一瞬で暗記出来るし、あたしより色々ものを知っているし、自分で計画立てられるようにさえなればあっと言う間に世界的な研究者になれるのよ?」

 「だから、それはアスカの価値観の中の”優秀”であって、そしてそれだけなんだよ。」

 シンジはアスカの言葉には応えず、突き放すようにそう断言すると凝った肩をほぐすようにぐるぐると首を回した。

 アスカはまだ判らない、とばかりに首を振っている。

 「だからね、例えばレイチェルが僕と一緒に音楽家を目指していたとしよう。でも、僕らの価値観の中では、どんなに正確に曲を弾くことが出来ても意味がないんだよ。同じ曲を同じように奏でるだけなら、CDの方がいいじゃないか。毎回違う聴衆の毎回違う感情を相手にするわけだから、その場の雰囲気、その時の観客の求めるものを表現できる感受性の持ち主こそが”優秀”なんであって、それ以外は些末なんだ。」

 それが最後まで判らなかったコンラート=ローレンツは先日結局アカデミーを去った。

 観客を蔑ろにするような”技術のアピールのための演奏”を続ける彼を、ディレクターは遂に諦めたのだ。

 コンラートは”楽譜に記された通りに演奏する”ことにかけてはシンジを凌駕していたと、今でも疑いなく言える。

 だが、その日の指揮者の気分の高揚、周囲の調子、観客の反応を敏感に察知し、彼らとともに”その日最高の演奏”を楽しみ作り上げることの素晴らしさに比べたら、如何ほどの価値があろう?

 「”優秀”という言葉が求めるものは分野それぞれで違うし、人それぞれでも違う。ほら、例えば僕にとってのアスカはどんな時も等価値なんだよ?」

 優秀であろうが無かろうが、シンジにとってアスカが、アスカにとってシンジが不可欠のものであることには変わりがない。

 人と人の関係ってそう言うものじゃない?と言ってシンジはアスカの腰に手を回してそっと立ち上がらせた。

 「だから、レイチェルを迎えに行こう。多分、僕らは良いところに来たんじゃないかと思う。」

 シンジはアスカの手を取ってゆっくりとアスカを玄関に誘導した。

 「今からじゃ・・・間に合わないかも・・・。」

 力無く呟くアスカの耳元でシンジは『聞こえない?』と悪戯っぽく笑った。

 アスカには何も聞こえないが、普段極微の音の違いを聞き分けているシンジには何かが聞こえるのだろう。

 そして、程なくしてアスカの耳にもしゃくりあげるような泣き声が近づいてくるのが聞こえてきた。

 アスカはさっきまでと逆にシンジの手を引っ張って、勇んで玄関から走り出た。

 「おかえりなさい!

 相手の顔も見ないで声をかける。

 そこにレイチェルがいることに微塵も疑いがなかった。

 確かにそこにはレイチェルがいた。

 だが、彼女は一人ではなかった。

 「ただいま、アスカ。それとも、お邪魔しますが良いのかしら?」

 そこにはキョウコが片手に紙袋、もう片方の腕にレイチェルを抱いて微笑んでいた。



 山のような荷物を抱えたプリンツをシンジが助けに行っている。

 普段から二人が擦れ違うのがやっとの廊下だ。

 あれだけの荷物を持っている人間がいたら、如何にほっそりしているレイチェルといえども擦れ違うことは難しい。

 二人の前で立ち往生していたレイチェルから事情を聞いたのだろう、キョウコは二人の間に何が起こったのかをすっかり把握していた。

 「アスカ、誰だって突然笑われたら嫌な思いするでしょ?謝りなさい。」

 キョウコは敢えて二人の心に働いた作用には触れずにそう話した。

 「ごめんね、レイチェル・・・。あたしそんなつもりじゃなくて、あたしと似ているな、と思って笑っただけなの・・・。」

 「そんな・・・私こそ、すみませんでした・・・。」

 アスカとレイチェルは互いに申し訳なさそうに頭を下げあった。

 仲直りの印に頬と頬をくっつけあいお互いの肩を抱く。

 二人を見つめるキョウコの顔は満足そうだ。

 短い抱擁の後でアスカが離れようとしたとき、レイチェルがぎゅっと強く抱きついてきた。

 「・・・えと・・・あの・・・やっぱり、私、が、帰る場所・・・ここしかないから・・・。」

 レイチェルはアスカの耳元でそう呟いた。

 アスカはすぐには応えず、ただぎゅっと腕に力を込め、レイチェルの息が止まるほど強く強く抱き締めた。

 たまらずレイチェルが音を上げる。

 「あの、アスカさん・・・苦しいです・・・。」

 「レイチェルが馬鹿なこと言うからよ。」

 アスカは最後にまたひときわ強く抱き締めてから解放した。

 「もぉ、当たり前じゃない。ここはあなたの家じゃないの。ずっといて良いのよ?」

 アスカは人差し指でレイチェルの鼻の頭をつついた。

 くすぐったそうに顔をそむけるレイチェルを追いかけてまたつつく。

 「ほらほら、遊んでないで荷物を運ぶの手伝ってちょうだい。まだまだたくさんあるのよ?」

 キョウコはすっかり元気になった二人を促すように、ぱんぱん、と手を叩いた。

 二人は仲良く手を取って立ち上がった。

 「それにしても、良かったの?こっちに来ちゃって?」

 アスカは今更ながらそう聞いてみた。

 クリスマスを親元で迎える、というクリスチャンのスタイルを完全に崩してしまうことになる。

 「あらら?だって、アスカは洗礼も受けてないのよ?そんなに真面目に守ることないじゃない?それに、あんただって”礼拝眠いから行かない”とか言ってたくせに・・・。」

 キョウコが不思議そうに首を傾げる。

 実際その通りだからアスカも反論しようがないのだが、レイチェルの目の前で”不信心者です”と暴露するのはやめて欲しかった、とぶつぶつと恨み言を言う。

 それを聞いたレイチェルは思わず吹き出してしまった。

 「あは。アスカさん、そんなの判ってますよ。」

 ぺち、と軽く背を叩かれたアスカは驚いて彼女を見つめた。

 今までレイチェルからそんなことをされたことがない。

 彼女は今、これまでにないほどリラックスしている。

 それも、初対面の人達に囲まれた、この状況で・・・。

 「ど、どうして?」

 アスカのその問いかけを、レイチェルは自分の言葉へのものと取ったようだ。

 「だって、アスカさん、お食事の前にお祈りしたこと無いじゃないですか。」

 あっはっはっは、という大笑いが、部屋の中でも外でも響いた。

 「ばればれだねぇ、アスカ。」

 米袋を肩に担いだシンジが笑いながら部屋の中に入ってくる。

 大きなトレイを持ったプリンツがその後に続いた。

 「だから細かいことに拘る必要はないぞ。もともと、私達が揃った場所が私達の故郷なんだからな。」

 「そうですよ。折角揃ったんですから、アスカの誕生祝いを兼ねて今日は少し早いクリスマスパーティにしましょう。」

 アスカはただ素直に頭を下げた。

 家族の絆が冬の寒さを忘れさせるほど心を暖めていた。


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