転校生 S
作 : Ophanim
第29話 大人と子供




 こんこん

 扉を叩く音でアスカは我に返った。

 いつの間にか寝入っていたらしい。

 こんこん

 さっきよりも少しだけ強いノックの音が、より明確にアスカの意識を醒ましていく。

 (レイチェル・・・じゃないわよね?)

 ノックされているのは玄関の扉だ。

 彼女が外にいたとして、鍵を持っていないはずがない。

 万が一彼女が鍵を持ち忘れて外に出たとしても、こんな無神経な方法ではなく、一度くらいは声をかけてみるとか適当な時間まで買い物をして過ごすとか、もっとエレガントな方法を採るはずだ。

 こんこんっ!

 無粋なノックは続き、今ではアスカもすっかり目が覚めていた。

 寝起きの不機嫌さも手伝って、鼓膜を直接叩くような無神経さがどんどん許せなくなっていく。

 (誰よ、一体?)

 心地よい微睡みを邪魔された上、不快感を注入されたアスカは足を踏みならすようにして玄関を開けた。

 「あ、やっぱり帰ってたのね?」

 そこにいたのは、レイチェルでも研究室の仲間でもなく、メアリー=レッドフィッシュだった。

 彼女は、宙ぶらりんの状態だったアスカに道を示してくれた上、先日はアスカをボストンに送ってくれた、言ってみればアスカの恩人である。

 だが、彼女が何のためにここに来たのか、その理由に思い至ったとき、気持ちはむしろ逆方向に向かう。

 「あら、マリー。どうしたの?」

 アスカは顔を強張らせながら、精一杯の笑顔を作った。

 「どうって、だから、パース=ホーキンスのパーティのことよ。アスカ達二人だけが出席しなかったら、この先大変よ?」

 やっぱりそれか・・・。

 アスカはたちまち笑顔を引っ込めた。

 「だから、あたし達は未成年でお酒飲めないから出席できないって言ったじゃない。フレッチャー教授だって『そう言えばそうだな』って認めてくれたじゃん。」

 本音を言えば、それに加えて客や先輩が宴会の場で繰り広げるセクハラまがいの言動が我慢ならないのだが、それを言うことだけは思い留まった。

 また、レイチェルのこともある。

 レイチェルは人見知りをする上、大勢の人がいる場所に行くのが苦手だ。

 この部屋にいるレイチェルと、市場のような『人はたくさんいるが、他人が安易に自分に話しかけてくるわけではない場所』にいるレイチェル、それに宴会のような『人が多くいて、しかも彼らがいつ話しかけてくるか判らない』場所にいるレイチェルは全て別人のように違う表情を見せる。

 レイチェルが買い物をする店が個人経営のような小さい店に固定されているのは、そちらの方が安いからだけではない。

 部屋では物静かながら明るいレイチェルは、市場では無口な、決して隙を見せまいと絶えず周囲に気を配っている怜悧なレイチェルに変わるのだ。

 そして、多くの人が集まる宴会のような場所にいるとき、レイチェルは文字通り人が変わったようになる。

 基本的に入り口に一番近い席を陣取り、俯いて押し黙ったまま貝のように口を開かない。

 それは、ヘレナが言っていたようにレイチェルにとっての”見る”時間なのだが、多くの場合、宴会や人混みで会う人、会う場所はその時その時で違っている。

 つまり、同じケースが無いことになるから、未来永劫レイチェルが人混みに慣れることはないのだ。

 そんなレイチェルが参加すれば彼女だけでなく、パースも嫌な思いをするだろう。

 アスカはうんざりした顔でため息をついた。

 そのため息に重ねるように、マリーが更にため息をつく。

 「あのね。あれは”お酒を飲めないのは”『そう言えばそうだな』って言っただけでしょ?屁理屈言わないでよ。オレンジジュースとかアイスティーだって用意するって言ってたじゃない。どうしてそういう勝手な行動取るのよ?」

 その言葉に、さすがのアスカも一瞬言葉に詰まる。

 アスカとしてもそれを忘れて言ったわけではないし、こんな些細なことで敢えて波風を立てるつもりは毛頭ない。

 過去の虐めや陰口に、神経をすり減らしながらも耐えてきたアスカは、勿論、その程度のつきあいになら充分耐えられる。

 だが、ことはアスカ一人の問題ではない。

 アスカはレイチェルを守ると決めたのだ。

 たとえアスカが一緒に行っても、レイチェルの態度は変わらないだろう。

 だからと言ってアスカ一人で出るのはますますレイチェルを孤立させることになる。

 どうあってもここで『はいそうですか』と折れるわけには行かなかった。

 「悪いけど、あたし達疲れてるし。先輩に会ったらおめでとうって言っておくわよ。」

 体調も悪いものね、と言いながら、扉を閉めようとした時だった。

 「アスカ、そんなの駄目だよ。」

 むすっとしたような声が響いた。

 聞きたかった声の、聞きたくない言葉が、アスカを金縛りにあわせる。

 「・・・シ・・・ンジ・・・?」

 固まったままの唇をどうにか動かして言葉を作る。

 ぐいっと再び外側から開かれた扉の向こうには、確かに愛しい人の顔があった。

 見たくなかった表情をしてはいたものの、それはまさしく碇シンジその人だ。

 「ひ、卑怯よっ!マリーっ!シンジを呼ぶなんて・・・。」

 アスカはシンジの視線を避けながら、マリーに文句を言おうとした。

 が、その前にシンジにしっかり抱き留められてしまう。

 抵抗すれば抜けられないこともなかったが、シンジの腕を拒否したように思われるのはもっと嫌だ。

 アスカはそのまま動けなくなった。

 「アスカ。僕が聞いたんだよ。電話で。アスカが休暇を取れないほど無理しているんじゃないかと思って。そしたら、メアリーさんが『休暇はちゃんと取ってるけども最近元気が無くて心配だ』って言うから・・・。」

 シンジの言葉には非難の色があるが、声には心配そうな思いやりがふんだんに含まれている。

 ただただ申し訳ない。

 久しぶりのシンジとの再会がこんな形になってしまったことに、アスカは俯いたまま唇を噛むしかなかった。

 「あの、それじゃ私はこの辺で・・・。」

 アスカの表情を見たマリーは気を利かせることにした。

 ここから先は、シンジに任せた方がいいだろう。

 「あ、すみません。道案内させただけになってしまったみたいで・・・。」

 シンジは申し訳なさそうにマリーに頭を下げた。

 「いいえ。私もアスカが心配だったし、それに今話したようなこともあるので・・・。これ以上は私が言っても駄目だと思いますから。」

 マリーはにこにこ微笑みながら荷物をまとめた。

 アスカの耳元で”仲直りできて良かったわね”と囁いていく。

 (・・・どこがよ・・・。)

 文句を言いたいが、マリーを見上げると怒っているシンジの瞳を目に入れることになりそうで出来ない。

 「疲れてるのは僕も同じだから、中に入っても良いんだよね?アスカ?」

 「・・・う・・・うん・・・。」

 アスカは俯いたまま小さく頷いた。

 形はどうあれ、数カ月ぶりでシンジと会って話が出来ることは、やはり嬉しかった。



 「はい、コーヒー・・・。」

 「ありがとう。元気出たみたいで良かったよ。」

 シンジはアスカに淹れてもらったコーヒーを手に取りながら微笑んだ。

 アスカも釣られて微笑みを返すが、まだどこかぎこちない。

 「シンジ・・・出かけるって言ってたから・・・てっきりマナの所に行くんだと思って・・・。」

 アスカはもじもじしながら自分の元気の無かった理由を白状した。

 コーヒーを飲もうとしていたシンジが思わず吹き出す。

 「あははは。なんでそうなるのさ?」

 快活に笑いながら、慎重にコーヒーを口に含む。

 また笑わされたら大変だ。

 「だ、だって・・・シンジ、もてるから・・・。」

 唇を尖らせて机の隅をいじるアスカが無性に可愛らしい。

 「そりゃアスカが僕のことをそう考えてくれるのは嬉しいけど、そんなことは絶対にないよ。霧島さんの部屋には一応色々揃ってて一人暮らしも出来るけど、基本的におばさんと一緒の建物の中だからね。みんなを集めてパーティーなんて出来ないんだよ。それに、彼女もうクリスマス休暇で日本に帰ってるし。」

 シンジはコーヒーを飲みながら説明した。

 「え?マナ帰ってるの?」

 「僕みたいな貧乏留学生じゃないんだぞ?飛行機のチケットくらいもう随分前に取ってあったみたいだし、それに、霧島さんは霧島さんでクリスマスの時期はお得意さまへの挨拶回りで忙しいってさ。客寄せの”見せ物のパンダさん”だったのが”バイオリンを弾けるお猿さん”に格上げされただけだって半泣きで帰っていったよ。」

 そうか・・・、とアスカは自分の思い違いに気がついた。

 マナはただのマナではなく、”霧島”マナだった。

 普通の日本人留学生ならクリスマスを寂しく過ごすかもしれないが、彼女は住んでいる世界が違っていた。

 アスカが心配することは何もなかったのだ。

 「じゃ、出かけるって言うのは?」

 「ミュンヘンに、だよ。」

 シンジはぐいっと残ったコーヒーを流し込みながら答えた。

 余りにも態度に余裕があるので、逆についついほじくりたくなる。

 「独りじゃないって言うのは?」

 「え?そんなこと言った?一人じゃないって・・・キョウコさんがいるってことかなぁ?覚えてないよ?」

 アスカはようやく安心した。

 シンジの手から空のコーヒーカップをもぎ取ると、追加のコーヒーを注ぎ足して戻ってくる。

 今やその顔にはあの輝くような笑顔が戻っている。

 「それよりも、僕の方が心配だったよ?アスカが帰ってこないって言うから、他に誰か好きな人が出来たのか、そもそも、どんなところに暮らしているのか・・・。もう一人の留学生と一緒に住んでるって聞いたときは息が止まったよ、本当に・・・。」

 今度はアスカが笑い転げる番だった。

 何のことはない。

 二人とも相手のことを思う余り、相手が”絶対もてるものだ”と決めつけて気に病んでいただけだったのだ。

 アスカは一緒に住んでいるレイチェルのことを色々説明しながら、自分もコーヒーを空けて新しいコーヒーを追加した。

 「それで、いつこっちに着いたの?」

 「ついさっきだよ。大学に行ってアスカのアパートを聞いて、ここまで一緒に来たから。プリンツさんとキョウコさんは今メアリーさんを送って行きながらホテルの場所探してると思う。持ってた地図がもう古かったみたいだよ。」

 10年近く前の地図だもんねぇ・・・。

 シンジは悠然とコーヒーを口に運びながらそう説明した。

 「えっ!パパとママも来ているのっ!?

 アスカは飛び上がるほど驚いた。

 「そりゃそうだよ。今更電車のチケット取れないもの。ベルリンからここまで車で来たんだよ?アウトバーンは雪で滑って怖かったから途中から国道だよ。」

 シンジはそう言いながら辛そうに腰を叩いた。

 長時間の車での移動はただ乗っていただけのシンジにもかなり厳しい。

 ましてほとんど一人で運転してきたプリンツの疲労はいかばかりかしれない。

 「それはお疲れさま・・・。」

 「いやいや。まぁ、二人ともミュンヘンに行きたいって言ったら納得してくれたし・・・。ところで、さっきの話だけど。」

 シンジは急に真面目な顔を作ってアスカの目を見据えた。

 アスカは見つめ返すことが出来ず、俯いてシンジの言葉を待つ。

 「アスカ、自分の都合で子供と大人を使い分けちゃ駄目だってば。そんなのただの我が儘だよ。」

 いつも優しいシンジの厳しい言葉は、再会の喜びを打ち消して余りあるほど痛い。

 アスカは項垂れたまま、こく、と頷いた。

 「ましてアスカは”大人として扱って欲しくて”飛び出したんだろう?だったら、”大人のつきあい”だけを嫌がって”自分は子供です”なんていうのは卑怯だよ。教授だってアスカが参加しやすいようにノンアルコール準備してくれるって言ってるそうじゃないか。それが判らないアスカじゃないだろう?」

 シンジの声は決して荒げられていない。

 だが、淡々と、噛んで含めるように語られる言葉はとても厳しかった。

 「・・・はい・・・。ごめんなさい・・・。」

 しおらしく項垂れるアスカを見て、シンジは思わず息を飲んだ。

 「え?どうしたの、アスカ?」

 言われたアスカの方もきょとんとしてシンジを見返す。

 「どうしたって?」

 「いや、アスカらしく無いというか・・・一言くらい返ってくるかな、と思ってたんだけども・・・。」

 シンジは苦笑いをしながら頭を掻いた。

 「やぁねぇ・・・うん・・・でも、不思議。とても素直になれるわ。今なら。」

 アスカも苦笑混じりに頬に手を当てた。

 顔が火照っているのが判る。

 あぁ、自分は本当にこの人が好きなんだなぁ、と思っている自分がとても好ましい。

 「や。じゃあ、もう僕から言うことはないよ。一つ聞かせて欲しいのは、どうして嫌だったのか、かな?何の理由もなくあんなこと言うアスカじゃないだろ?」

 シンジはにこにこしながら机に手をついた。

 強気なアスカも良いが、素直なアスカもまた良い。

 それに、以前どことなく感じられた危うさが消えているのがアスカの魅力をいやが上にも増している。

 (かえって心配かもな。)

 内心でそんなことを考えてしまう。

 「それは・・・その・・・レイチェルのことで・・・。」

 アスカは正直に自分の心配を口にした。

 それを聞いていたシンジの表情がまた渋く変わっていく。

 「アスカ、それもやっぱり駄目だと思う。教授だってそれを知らないはずはないと思う。今までどこにも連れ出してないのかい?」

 シンジの指摘はまるでずっと一緒に暮らしていたかのように的確だ。

 確かに、グウィンは知り合いの所に行くような短期の出張にレイチェルを連れて行くことがあった。

 その時は”無理に連れ出さなくても良いのに”と思っていたものだったが・・・。

 「アスカ、何でもそうだと思うけど、逃げちゃ駄目だよ。特に、嫌なことから逃げていたら、いつまで経ってもどうにもならないと思うんだ。」

 自信に溢れたシンジの言葉は、その空気だけでアスカの首を頷かせる。

 迷いの消えたアスカはようやくシンジの目を正面から見つめ返すことが出来た。

 その目の中で、シンジの顔が次第に大きくなっていく。

 これ以上大きくならない、と思ったとき、自然に目が閉じられた。

 「ただい・・・・・・!」

 どうも間が悪いときに帰ってきてしまったらしい。

 レイチェルは、不自然に反対側を向いている二人の真っ赤な顔を見てそう思った。


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