転校生 S
作 : Ophanim
第28話 女の愛情、女の友情




 多くのキリスト教徒にとって、特別な日が2つある。

 一つが復活祭、そしてもう一つが言わずと知れたクリスマスである。

 日本のクリスマスと違い”クリスマスを祝ってどこかに出かける”と言う家はほとんど無い。

 それは、”クリスマスの後”に行われるべきものなのだ。

 クリスマス当日には自宅に留まり、祈りを捧げ、家族の平安を喜び合う。

 従ってホテルのほとんどでこの日は空いていて、翌日から予約で埋まっている、と言う状態が普通だ。

 ボストンで家族の暖かさを悟ったアスカも、クリスマスは家族で祝いたい、と言う気持ちでいた。

 教会で暮らした経験のあるレイチェルにとっても、恐らくは同じ想いがあったはずで、レイチェルは当然ボストンに帰ると思っていたアスカにとっては青天の霹靂だった。

 だが今のレイチェルにとっては、アスカこそが、この部屋こそが”家族”であり”故郷”なのだろう。

 それが痛いほど判るだけに、あんなに嬉々として買い物袋の中身を冷蔵庫に移していたレイチェルにその場で『ごめん、あたし、クリスマスはベルリンに帰るのよ』と告げることは余りに酷だった。

 だが、恋人にも親にも『クリスマスには帰る』と宣言したその舌の根も乾かぬうちに『やっぱり駄目になった』と告げるのも憚られた。

 加えて、ベルリンには恋敵候補が目を光らせている。

 クリスマスという、二人の距離を縮めるには絶好のイベント、まして、宗教色に薄く祝い事好きの日本人が、この機会をむざむざ逃すはずがない。

 あの別れの時、同じ日本人同士だから、と情けをかけて『貸しておく』などと言わなければ良かった、と後悔するが、もはや後の祭り。

 今のアスカは極端な言い方をすれば、”恋愛か友情か”の二者択一を迫られていた。

 が、そうやって悩んでいる間にも時間だけは進む。

 予約だけはしてあるミュンヘン行きの切符をキャンセルするか、駅に行ってそれをチケットと交換するか。

 決断までの時間は余りない。

 幸い今日はレイチェルがいない。

 この間のアスカと同様にフレッチャーの鞄持ちでどこかに連れられている。

 だが、アスカよりもずっと人見知りするレイチェルを気遣って、たった半日の出張、それも顔見知りの所への出張だ。

 決断の時は今だ。

 今しなければ、レイチェルの目の前で決断を下すことになる。

 賢い彼女はアスカが苦しんでいることを察知してしまうだろう。

 そうなったら彼女がどういう行動に出るかは判るし、自主的にそちらを選んだとしてもレイチェルの顔に浮かぶ落胆を目の当たりにすることになる。

 どちらにするにせよ、決断の瞬間には彼女がいない方がいい。

 それには、今しかないのだ。

 アスカはぐっと顔を上げた。



 「クリスマス前にパース=ホーキンスの学位取得祝いをしようと思うんだが?」

 グウィン=フレッチャーは研究室に入ってくるなりそんな提案をした。

 無論、何の依存もあろうはずがない。

 朝の定例会のために集合していたほとんどの学生の他、事務連絡のために居合わせたマリーや秘書ら研究室以外の人間も一も二もなく賛成した。

 ただ二人を除いては。

 「あれ?アスカとレイチェルは嫌か?」

 グウィンは返事のない二人を見やった。

 レイチェルの方は嫌と言うよりもこのところ元気のないアスカが気になって仕方がないようだった。

 そして、その気にされているアスカの方はと言うと、今日はいつも以上に元気がなかった。

 「アスカ、聞いてたか?」

 「えぇ・・・。」

 血色の悪い、思い詰めたような表情のアスカが重い口を開く。

 「で、どうする?」

 グウィンはアスカに向かって聞いた。

 アスカが頷けばレイチェルも来るし、そうでなければ二人とも来ない。

 そうなることは判っていたから、アスカだけに聞く。

 「お酒、出るんですよね?あたし達は未成年ですから、不参加で良いです。」

 「そう言えばそうだな。それなら、オレンジジュースのようなものも少し多めに準備するが、どうだ?」

 グウィンは更にもう一度アスカを誘ったが、アスカは首を縦には振らなかった。

 相変わらず葬式と試験が一緒に来たような憂鬱そうな暗い表情。

 身体中に陰気をまとわりつかせたまま、のそりと立ち上がる。

 「いいえ。それよりも、来たばかりですけど、具合が悪いので今日はもう帰ります。」

 「あ、そ、それじゃ私も・・・。」

 そそくさとレイチェルも後を追う。

 以前はその異常なまでの仲の良さが心配だったが、最近は逆に二人一緒の方が何かと安心だ。

 アスカはまるで自殺寸前に見える。

 「っんだよっ!辛気くさいなぁ・・・。男にでも振られたのか?」

 ハーミス=フューリアスが少しおどけたようにして叫ぶ。

 彼にも近いうちに審査が開かれるので少し舞い上がっていたのかもしれない。

 アスカは扉の前でぴたっと立ち止まった。

 肩が小刻みに震えている。

 まずい、とハーミスが思ったときは当然手遅れだった。

 「うるさいわねっ!放っといてよっっ!!

 久しぶりに元気なアスカの声が聞かれた。

 だが、振り返ったその目は、涙で真っ赤に腫れ上がっていた。



 あの日。

 アスカはベルリン行きの電車をキャンセルし、心を決めた上で実家に電話をした。

 運良く電話にはシンジが出てくれた。

 他愛もない話はすぐに終わり、二人の何よりの関心事に話題が移ったのは自然な流れだった。

 「何日の何時の電車になるの?」

 シンジはアスカが帰ってくることに全く疑いもなくそう尋ねた。

 「・・・あ、あは、あはははは、あはは・・・そのぉ・・・か、帰らないことになっちゃった・・・。」

 アスカは観念してそう言った。

 背中には冷たい汗が滝のように流れている。

 受話器を通してシンジの怒りや悲しみが伝わってくるようだ。

 「・・・アスカぁ、帰ってくるって言ったの、ついこの間じゃないか・・・。」

 「ごめんっ!ちょっと色々あって、帰れないのよ。」

 アスカは買い置きのテレホンカードをお札のように拝みながらそう謝った。

 シンジに許してもらえるなら、これが切れるまで謝り続けても良い。

 だが、受話器の向こうからは思いもかけない反応が返ってきた。

 「アスカ、僕一人じゃないんだよ?」

 (え?)

 アスカがシンジに聞き返そうとしたとき、受話器の向こうの声が変わった。

 「アスカ、戻らないの?どうして?」

 キョウコの声はいつも以上に寂しそうだった。

 何しろこの間の電話の内容では天にも昇るような幸福を味わったばかり。

 その直後にこれではどうにも気持ちの整理がつかないだろう。

 「ご、ごめん。ママ。そ、その、忙しくて・・・。」

 アスカは相手がシンジからキョウコに変わったことで本能的に嘘を言った。

 なんとなく、シンジ以外の人に真実を話したくなかったのだ。

 だが、それは完全に裏目に出る。

 「だったら最初から”帰れない”って言うはずじゃない。アスカは”帰らない”って言ったのよ?」

 キョウコはアスカの微妙な言葉遣いの違いで何かが隠されていることを見抜いていた。

 本来、根が正直なアスカはこれで完全に取り乱してしまった。

 「ば、馬鹿なこと言わないでよっ!何にもないわよぉ・・・。」

 「何にもないなら帰ってこれるじゃない。どうして忙しいのよ?」

 キョウコの方もなまじ期待が大きかっただけに娘を翻意させようと必死だ。

 何しろ、既にクリスマス用のチキンやらケーキやらを買い込んであるのだ。

 アスカを驚かせようと、みんなで買い物に出かけて選んだプレゼントも用意されている。

 それなのに、肝心のアスカが来なければ何にもならない。

 「い、忙しいって言ったら忙しいのっ!

 一方のアスカも引っ込みがつかない。

 何しろ電車の切符はもうキャンセル済みだが、今からではとても手に入らない。

 じゃあやっぱり帰る、と簡単には言えないのだ。

 「大学の他の先生だって休むじゃない?おかしいわよ、アスカ。」

 何か隠しているでしょう?

 その一言は余計だった。

 特にシンジがいる前では・・・。

 「そ、そ、そんな訳・・・無いじゃない・・・。」

 動揺が伝われば、誤解は解きようがない。

 アスカはそれ以上キョウコの質問に答え続ける自信が無くなり、沈黙した。

 だが、電話で言葉を発しなければ無用の曲解を招き、たまに吐き出される言葉のどもりは誤解を確信に変える。

 全てが裏目に出てしまった。

 「・・・判ったよ、アスカ。クリスマスには出かけることにするよ・・・。」

 最後に電話に出たシンジのその言葉に、アスカは何も答えることが出来なかった。

 シンジが出かける相手などマナ以外に考えられない。

 他の同僚もクリスマスには実家に戻っているだろう。

 残っているのはクリスチャン以外の人間。

 そしてマナは数少ない日本人。

 口実も状況も全て揃っていて、アスカ自身の失策でシンジをフリーにしてしまった。

 こんなチャンス、逃すはずがない。

 少なくともアスカなら食らいついて離さない。

 シンジは”自分は独りではない”と言った。

 自分も出かける、と言った。

 恋人に向かって出されたそれらの言葉は三行半にも近い。

 ”じゃあ、他の誰かの所に行くよ”という意味合いを強く持った、もはや”浮気宣言”だ。

 シンジが公然とそれをアスカに話した時から、アスカの心は千々に乱れてまとまらなかった。



 レイチェルはおろおろとしながらアスカに続いて家に戻った。

 今のアスカには彼女を振り向く余裕もない。

 帰り着くなり、身体中の空気を吐き出したかのような大きなため息とともに、ソファーに倒れ込む。

 「アスカさん、疲れてますよね?お昼、簡単なもので良ければ私が作りますから・・・。」

 返事はなく、微かに頷くアスカの頭がレイチェルをキッチンに送り出す。

 最近こんな具合に元気のないアスカを気遣って一緒に帰るので買い物にも行けない。

 残っているあり合わせの食材でなんとか二人分の軽食を作る。

 この分では今日の午後にはどうしても買い物に行かなければならない。

 だが、今のアスカを独り残しても、連れて行っても心配だ。

 ぐったりと肩を落としてソファーに沈んでいるアスカを見るにつけ、レイチェルの胸は痛む。

 「アスカさん、お昼にしましょう。」

 努めて明るく声をかける。

 のそのそ、とアスカの首が動いた。

 「食欲無いの。ごめんね。」

 返ってきた答えは一層暗いものだった。

 昨日までなら・・・。

 アスカの言葉通り、体調が優れないもの、と考えることが出来た。

 だが、今日は違う。

 アスカの元気がない原因が判ってしまっている。

 レイチェルはそっとソファーのアスカの隣に座った。

 「・・・ごめんなさい・・・。私が・・・浅はかでした・・・。」

 アスカは弾かれたように飛び上がった。

 「ば、ば、馬鹿なこと言わないでよね?ど、どうしてレイチェルが気にすることあるのよ?」

 あははは、と乾いた笑い声を上げる。

 シンジのことはもはやどうすることも出来ないが、この上レイチェルまで気に病むようならなんのためにここに残ったのか本当に判らなくなる。

 「でも、確かに、私と一緒にいるとアスカさんは恋人とも連絡を取れないでしょうから・・・。あ・・・。」

 レイチェルは口に手を当てて目を見開いた。

 しまった、とアスカは海よりも深く後悔した。

 アスカに元気のない理由を想像しているうちに、アスカの家族について思いついたに違いない。

 そしてその想像は当たってしまっていた。

 「・・・ごめんなさい・・・私、勝手にアスカさんはずっとここにいるものだとばかり・・・。そうですよね・・・アスカさんは・・・実家に戻りたかったですよね・・・?」

 「そ〜〜んなこと、全っ然っ無いのよ?無いのよ〜〜?あたし、ほら、研究熱心だからさ。こっちに残って実験やってた方が落ち着くのよね〜〜。

 アスカは一生懸命声に張りを持たせて話した。

 ソファーに座るレイチェルの手を引っ張るようにして立ち上がる。

 「そ、それに、ちゃんと食べた方が気分も早く良くなるかも〜。ね、食べよ食べよ。折角レイチェルが作ってくれたんだし・・・。わ〜、美味しそうだなぁ・・・。」

 ほんの数分前と主客を入れ替えての言葉が交わされる。

 どうにかこうにか食卓に二人が揃ったものの、今度はレイチェルがすっかり沈み込んでしまった。

 元々憂鬱だったアスカもまた、いつまでも明るい仮面を付け続けることも出来ず、日差しはまだ昼なのにも関わらずまるで灯が消えたように暗い風景が広がっていた。

 互いに無言のままで昼食を終え、やはり思い詰めたような表情のままで後片付けを済ませる。

 お通夜のように沈んだ雰囲気の中、ソファーに戻ってくる。

 アスカは今度こそ倒れるようにソファーに身を預けた。

 食べた後なのに少しも気分が上向かない。

 むしろ本当に気持ちが悪くなってきたような気さえする。

 「・・・ごめんなさい・・・。」

 いつの間にか近くに来ていたレイチェルがアスカの背中に向けて謝った。

 「どうして謝るのよ?」

 アスカはぐっと身体を起こした。

 レイチェルの顔を正面から見据える。

 その視線を避けるかのように、レイチェルは俯いてしまった。

 「・・・私のせいで、アスカさん、恋人さんと駄目になっちゃったんじゃないかと思って・・・。」

 「あ〜、いいのよ、あんな奴・・・。」

 ちくりと痛む心を無理矢理抑え付けて、アスカは精一杯の虚勢を張って笑顔を作った。

 「あたしがちょっと帰りのチケット予約するの忘れたくらいでぶ〜ぶ〜文句言う奴なんてこっちから願い下げよ!あたしは研究で忙しかったって言うのにさ。」

 そんなアスカの言葉も、じっと見つめるレイチェルの前では効果を発揮しないように思える。

 「・・・でも・・・。」

 「あ〜〜っ!もうっ!あたしが良いって言ったら良いのよっ!

 アスカはつい苛々として大きな声を出した。

 途端にレイチェルが萎縮する。

 アスカは慌てて優しい笑顔を作った。

 俯いたままのレイチェルの肩を優しく掴んで、アスカは最後の切り札を使う。

 「ねぇ、あたし達だって”家族”でしょ?同じ部屋に住む、ルームメイトだもの・・・。」

 その言葉に、レイチェルの身体がぴくっ、と反応し、その瞳が初めて能動的にアスカの顔を捉えた。

 それでもなかなかその体が動いてくれない。

 以前のアスカなら”はっきりしないわねぇ!”と怒り出してところだろう。

 だが、レイチェルを相手にするときはそれでは逆効果だということが判っている。

 折角築いた信頼関係を、こんなことで壊したくない。

 アスカは辛抱強く、レイチェルの首が縦に振られるのを待った。

 「・・・はい。」

 レイチェルの首は、まるで鹿威しの竹筒のように充分に長い時間をかけた後で縦に振られた。

 そしてその表情もまた。

 あの爽快な音を想起させるように輝きを取り戻していた。


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