転校生 S
作 : Ophanim
第20話 背中の想い出




 「あ、そっかっ!!

 「アスカさん、しーっしーっ!

 思わず大声をあげたアスカの隣で、レイチェルが周囲にぺこぺこと頭を下げた。

 「あ、ごめん。でも、判ったわ。レイチェル。ありがとう。」

 アスカはそれでもまだ少し大きめの声でレイチェルに礼を言った。

 「あぁ、もうこんな時間です。アスカさん、もう帰りましょう。」

 レイチェルは図書館の壁に掛かる時計を見て慌てて鞄に本やノートをしまい始めた。

 「そ、そう?もうちょっとなんとかならないかな?」

 アスカは大急ぎで数式を書き留めながらレイチェルに尋ねた。

 「駄目ですよぉ、お店閉まっちゃうと大変ですよ。」

 レイチェルはアスカの鞄にアスカの本を詰め込みながら答える。

 それからたくさん借りこんでいた辞書や事典を返しに行く。

 その間にようやく数式を写し終えたアスカは、今写した数学事典と二人分の鞄を持って駆け足でレイチェルを追いかけた。

 「わ、アスカさん、図書館は走っても駄目ですよ。」

 尋常でない足音に気がついたレイチェルが慌てて振り返ったが、勢いのついたアスカにとっては障害物が目の前で大きく広がっただけだった。



 「お?今日は来ないかと思ったぞ?」

 「ごめんなさい、ちょっと遅くなってしまって・・・。」

 八百屋の店先で肩で息をしながら謝るレイチェルの姿は、まるでどこかの若奥様だ。

 「今日は二人?珍しいわね?」

 八百屋の奥さんがレイチェルの後ろにいるアスカを認めながら、アスカにではなくレイチェルに話しかける。

 「えぇ。あの、紹介しますね。私のルームメイトの、アスカさん。蒼龍=ラングレー=アスカさん。」

 レイチェルの後ろで小さくなっていたアスカは、日本式にレイチェルの声に合わせてぺこっと頭を下げた。

 「へぇ。別嬪さんだね。日本?アメリカ?」

 「あ、いえ、名前はそうですけど、アスカさんの国籍はドイツですし、ドイツ語も母国語ですから・・・。」

 レイチェルはにこにこと話しながらさりげなく半分閉まっているシャッターの中に身を滑り込ませた。

 「今日はジャガイモをもらいに来ました。あ、売り切れ、ですか?え?時間切れぇ?えぇえ、お願いしますよぉ・・・もぉ、意地悪なんだから・・・。」

 すっかりレジを閉めていた八百屋の夫婦も慣れたもので、会話を楽しみながらレイチェルの買い物に付き合って店を開けている。

 店の外に一人残されたアスカはなんとなく取り残された気がしてシャッターに寄りかかった。

 (あたしより馴染んでるわよ・・・。)

 アスカが一人で今の状況だったら、アスカはとっとと諦めて一食抜くか外食するかの選択にしたはずだ。

 そんな発想が出るとき、アスカは自分が”日本人”なのだ、と実感させられる。

 レイチェルの行動は典型的なヨーロッパ人のスタイルで、レイチェルの母国であるアメリカ人のそれとさえ違う。

 うっかり『もしここでの生活に慣れてなかったら何でも聞いてね?』などと言い出さなくて本当に良かった。

 やはり迂闊な行動はとるものではない。

 「今日はもう締めだからこれも持ってっていいや。そしたら釣りはいらないだろ?」

 「わぁありがとうございます〜。」

 店の中では楽しそうなやりとりが続いている。

 例えば、レイチェルのことをもっと知ったとして、自分がレイチェルのために何をしてやれるというのか?

 「外の嬢ちゃんと分けな。」

 「わ、わ、良いんですか?」

 ごそごそ、と紙袋に何かが押し込まれる音がする。

 「うちのには内緒だ。その代わり、明日からはもうちょっと早く来るようにしてくれよ?」

 「はい〜。すみませんでした〜。」

 両手一杯に荷物を抱えたレイチェルが店の外に出てくる。

 「リンゴおまけしてもらっちゃいました。」

 その屈託のない笑顔を見ていると、何とかなりそうな気がしてくる。

 アスカはレイチェルの笑顔に付き合うことにした。

 「荷物増やしちゃって。あたしが半分持ってあげるわ。」

 「あは。少し期待してました。」

 レイチェルは小さく舌を出した。

 早くも暮れかけた街が、少しだけ暖かくなったようだった。



 いつもより少し遅い夕食後、アスカはレイチェルを押しのけるようにして流しを占領すると、丁寧に食器を洗い始めた。

 普段の仕事を失ったレイチェルは、苦笑いしながら居間に戻ると部屋の掃除を開始した。

 電気代の節約のために図書館で勉強するようになってから、アスカが走り書きしたメモ書きが山のように増えて部屋が汚れる一方だった。

 アスカの走り書きは”時間が経つと読めなくなる”ものらしく、早めにノートに書き写す必要があるという。

 その結果、アスカのノートが充実すればするほど、不要になったメモが散乱するというわけだ。

 レイチェルは丁寧にメモ用紙を集めて箱に詰め込んでいった。

 「終わった〜。レイチェル、コーヒーに・・・あっ!ちょ、ちょっとっ!!

 洗い物を終えたアスカは、レイチェルが部屋を片づけているのを見て大慌てで止めに入った。

 箱を取り返すと、再びがさがさとメモ用紙をめくり直す。

 「あ〜・・・あ〜・・・。順番判んなくなっちゃった・・・。」

 「ご、ごめんなさい。私、余計なことをしてしまって・・・。」

 アスカの声は怒っているというには程遠い。

 だが、レイチェルは怒鳴られた以上におどおどしていた。

 この辺りの接し方がいまだによく判らない。

 今のように些細なことで脅えるかと思えば、アスカが指を切ったなどの大事には冷静に対処できたりする。

 時々どういう態度をとって良いのか迷ってしまう。

 「ううん。いいのよ。明日また調べるわ。」

 アスカは出来るだけ平静を保つように返事をした。

 以前なら・・・いや、相手がシンジなら。

 蹴り飛ばしてうっぷんを晴らしたものだったが、今はまだ、色々なケースについて相手との距離感を計っている段階だ。

 それでも、レイチェルを蹴り飛ばすことは今後も恐らく無いだろうが。

 「あの・・・。私、覚えてますよ。ここだったら。」

 レイチェルは急にぱっと笑顔を作ってアスカを見た。

 アスカの返事も待たずに紙を持ち出すと、おもむろに覚えている内容を書き起こし始める。

 その内容を見てアスカは思わず息を飲んだ。

 (この子・・・何?)

 レイチェルが書いていく数式は全て正確なものだ。

 確かに見覚えがあるし、アスカが知りたかった、あのメモの順番に並んでいる。

 それだけなら、アスカはただ感心すれば良かった。

 感動し、誉めれば良かった。

 だが、今アスカの目の前で繰り広げられている光景は賞賛よりも驚愕に遙かに近い。

 レイチェルが最初に紙に書いた文字は、左上のページ数だった。

 次に、その列の中央に本のタイトルと章のタイトル。

 更に、前のページから続いている文章の途中から書き始め、改行される部分までぴったり同じに再現していく。

 それも、思い出しながらではなく、すらすらと・・・。

 数分後には、見開き2ページ分の「手書きコピー」が出来上がっていた。

 今、レイチェルは最後の仕上げとばかりにページの隙間を埋めるために貼られていたイラストまで再現するためにペンを動かしている。

 それすらも正確にトレースされているのを見た瞬間、アスカは衝動的にレイチェルの肩を掴んで続きをやめさせた。

 「あ、れ、レイチェル、助かったわ。ありがとう。」

 一心不乱に、まるで写真のようにページの内容を書き込む姿はやはりどこか病んでいる。

 「あ〜、これで判りますか?」

 「判るもなにも、数式の順番さえ判れば良かったのよ。後は自分で導出するんだから・・・。」

 省略されている数式と数式の間の導出過程を自らなぞることは、非常に有効な学習になる。

 今日アスカとレイチェルが大学院で出されていた宿題がそれだったのだ。

 そして図書館では終わらなかった分を今ここでやろうとしたのだが・・・。

 「ね、じゃあ、レイチェルは宿題出来ちゃったの?」

 アスカは早めにカードを切った。

 一気に切り込んだ方がいい。

 「え?いいえ?だって、書いて無いじゃないですか?」

 案の定レイチェルは何の疑いも持たずにそう答えてきた。

 決定だ。

 「そう。じゃあ、後で一緒にやろうね。最初にシャワー浴びてきても良いかなぁ?」

 アスカはそそくさと部屋に戻り、着替えを持ってシャワーに向かった。

 少し落ち着いて考えをまとめたかったのだ。

 バスタブに湯を張って身体を埋める。

 (レイチェルは何かを考えて行動する、というわけではないってこと、間違いないわね・・・。)

 彼女の記憶力はずば抜けて素晴らしかった。

 だが、それらは『書いてあったこと』を記憶したに過ぎず、本に書かれている内容を論理立てて理解するのとは違う。

 フレッチャーの指摘は、残念ながら当を得ていたらしい。

 (レイチェルに・・・研究は無理だわ・・・。)

 研究活動は大きく分けて二つに分けられる。

 一つは新しい技術を産み出すもの、もう一つは過去の記録を整理してまとめるものだ。

 レイチェルの能力は後者に向いているが、残念なことに彼女らが今やらなければならないのは前者の『研究』だ。

 それが出来なければレイチェルの奨学金は打ち切られてしまう。

 だが、それを回避するのは簡単だ。

 アスカがレイチェルと共同で研究テーマを組んで、研究方針を決めればいい。

 そうすれば強力な研究ユニットが組める。

 アスカがこれまで申し訳ないと感じていたレイチェルへの恩返しにもなり、良いことずくめだ。

 (・・・あたし、役に立てるかな?)

 一瞬浮かんだそんな明るい気持ちは、急激に暗転した。

 言いようのない不安がアスカの心を鷲掴みにしたからだ。

 敢えて例えるなら。

 恐怖。

 レイチェルが自分で研究の方針を決める可能性がない以上、アスカの決定一つで彼女の今後の人生が決まることになる。

 それはアスカがこれまでの人生でもやってきたことだ。

 だが、今回は相手が違う。

 何しろレイチェルはアスカよりも遙かに色々なことを知っている、言ってみれば”自分より優れた”人間だ、とアスカは思っている。

 その相手に対して自分が口出しをしてしまったことで、かえって彼女に迷惑をかけてしまうのではないだろうか?という不安が大きい。

 (ううん・・・。違うわ・・・。)

 これまでは自覚がなかっただけだ。

 アドバイスをする際に自分の考えを押し通して少しも省みるところがなかった。

 いい加減なアドバイスをしてきたつもりはないが、そこまでの責任の重さを感じたことがなかった。

 それは相手に対して失礼だったのではないだろうか?

 「アスカさ〜ん。入りますよ〜。」

 のんびりした声がアスカの思考を寸断した。

 アスカがバスタブから上半身を出して扉を開けると、バスタオルで身体を隠したレイチェルがバスルームに入ってくる。

 「一緒に入った方が色々節約できますもんね〜。」

 レイチェルはほわほわとした雰囲気を纏ったまま、アスカと並んでバスタブに入ってきた。

 「あ、溢れるわよっ!

 「わ〜。溢れる〜。」

 体つきだけは大人の二人が一人用のバスタブに入ったらお湯が溢れるのは当然だ。

 アスカは大慌てで立ち上がってお湯が溢れるのを食い止めた。

 「すぐに身体洗っちゃいますね〜。」

 レイチェルは特に気にした様子もなくのんびりと身体を洗い始める。

 「もう、暖房ケチるつもりで水道無駄に使ったら意味無いわよ?」

 「そうですよね〜。」

 アスカの冗談にもマイペースで答えるレイチェルは、シャワーを使いながら背中にブラシをかけようとしていた。

 「あ、あたしが流すわよ。」

 あの夏の日、恥ずかしがるあの子の背中を力任せに流して痛がらせたことなど、楽しかった出来事がまるで昨日のように思い出される。

 「え?あ、お願いします〜。」

 レイチェルはにっこり笑って普通のスポンジをアスカに手渡した。

 こういう反応は日本のあの娘の反応とは対照的だ。

 (やっぱり違うわよねぇ・・・。)

 それなのに、時折同じイメージを持ってしまう。

 その理由の一つを今日垣間見たような気がするのだが・・・。

 (っ!?

 アスカはスポンジを取り落としてしまった。

 「滑りましたぁ?」

 「あ、う、うん、うんっ!

 アスカは落ちたスポンジを拾い直すと、ボディーソープを付け直した。

 「あははは〜。ボディーソープも無駄使いになっちゃいますね〜。」

 「そ、そうねぇ。あはあは・・・。」

 アスカは引きつった笑顔を作ってどうにか誤魔化した。

 恐る恐るレイチェルの背中にスポンジを走らせる。

 「アスカさん、もっと強く擦っても大丈夫ですよ〜。痛くないですし。」

 「う、うん、うんっ!

 アスカは自棄気味にごしごしと強く擦った。

 涙が出そうになるのを堪える。

 必死に耐える。

 (絶対、この子はあたしが守る・・・。)

 何があろうと。

 今度は間違えない。

 今度こそ絶対に後ろめたい思いをせずに守る。

 例え神に逆らおうとも。

 「アスカさん、ちょっと痛いかもしれません〜。」

 「あ、ごめんごめん。」

 アスカはスポンジに込める力を少し弱めた。

 「ありがとうございました〜。もういいですよ〜。」

 少し甘えたようなレイチェルの声がした後、その背中をシャワーが洗い流していく。

 湯に当てられてほんのり桜色になったレイチェルの背中には、生々しく痛々しい傷痕が幾筋も残っていた。


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