転校生 S
作 : Ophanim
第12話 危険な香り




 「アスカ、片付け、僕がやるから・・・。あ、おばさんも、休んでて下さい。」

 僕は手際良く洗いものを済ませていった。アスカが食後のお皿を運んできてくれる。

 「ありがとう。アスカ。ここ置いてくれる?」

 僕はアスカが持ってきたお皿を、まだ洗っていないお皿に重ねてもらった。

 「あのさ・・・て、手伝ってあげてもいいわよ?」

 アスカは拗ねたような顔で向こうを向きながら話した。

 「ふえ?うーん・・・じゃあ、洗い終わった分から拭いてくれる?」

 僕は洗い物籠の中に入っているお皿を指して言った。

 「・・・やだ。」

 アスカはそれをちらっと見て首を振った。まぁ、この量はちょっと多かったかな?と思った僕はアスカにそれ以上は要求しないことにした。

 「あははは。じゃあ、向こうでお茶でも淹れながら待っててよ。」

 そう言ってもアスカは生返事をしたまま動かない。僕はアスカをそのままにして次々と皿を洗った。

 べちゃ・・・

 洗い物が終わってお皿を拭こうと身体を動かした時、スリッパが嫌な音を立てた。

 「?・・・なんだこりゃ?」

 僕はスリッパを動かそうとして床の惨状に気がついた。朝まで綺麗だった床はそこらじゅうに油が飛び散っていてべとべとになっていた。

 アスカはこのことを言いたかったんだ・・・。

 僕はアスカが俯いているのを見て、そう確信した。

 「ゆ、か・・・拭くの、手伝うから・・・。」

 アスカは一つ一つの単語を区切るようにして話した。

 確かに、このままじゃ動けない。

 さっきアスカが台所に入られたく無かったのも当然だ。

 「判った。じゃ、これとっとと片付けてしまうから・・・。」

 僕は食器をささっと簡単に拭いてしまうと、スリッパが足から離れないように摺り足で運ぶ。

 じわぁっと油が靴下にしみてきた。夏物のスリッパは生地が薄い・・・。

 「うーん・・・。アスカ、ごめん、悪いけど、僕の靴下持ってきてくれない?」

 アスカはちょっと首を傾げてから洗濯物置き場に向かった。

 (これは困ったな・・・。)

 なにしろ、置く場所が無い。僕は両手に皿を持ってアスカを待った。油の感触は水に濡れるよりも一層気持ち悪い。

 「これでいいかしら?」

 アスカは僕の靴下をつまむようにして持ってきた。そんなに汚いかなぁ?一応洗ってあると思うんだけど・・・。

 「アスカっ!

 それを見てキョウコおばさんが大声を出した。

 「な、な、なによ?」

 アスカは驚いてキョウコおばさんを見ている。

 「そんな持ち方するんじゃありませんっ!

 キョウコおばさんはアスカを叱った。それはそうだろうなぁ・・・でも、アスカも負けて無い。

 「なんでぇ?ママ、パパの靴下持つ時いつもこうじゃん?」

 アスカは僕に靴下を手渡すと、キョウコおばさんに文句を言った。なるほどねぇ・・・親の背中を見て育つのか・・・。

 「わ、私はいいの!あ、あんたはだめ!

 キョウコおばさんは大声を出した手前、引っ込みがつかないんだろう。無茶な論理を持ち出した。

 「なんでよ?」

 当然アスカは不服顔だ。

 「ね、年季の問題なの!

 ?

 「年季ぃ?」

 アスカも胡散臭そうにキョウコおばさんを見つめた。

 「そうよっ!こういうことは、結婚してしばらくしてから自然に身につくものなのよ!!

 ・・・。

 まぁ・・・間違ってはいないかもしれないけど・・・。

 「そうなの?判ったわ。じゃあ、もうちょっとしてからにする。」

 意外なことに、アスカはあっさりと納得した。

 ・・・アスカの色々間違った知識はこうやってついたんだなぁ・・・。

 キョウコおばさんの無茶苦茶な論理にも素直に頷いているアスカを横目で見ながら、僕は着々と”陣地”を広げて行った。

 洗剤をかけて油を中和し、紙タオルで拭き取る。それが済んだら水をしみこませた雑巾で後拭きする。こうやって少しずつ油の飛んでいない部分を広げながら床を綺麗にしていく。

 「あ、あたしもやるから・・・。」

 アスカが僕の隣に来たのはあらかた床を拭き終わってからだった。

 「アスカは拭かなくていいよ。油が傷口から入ったら嫌だしね。」

 僕はアスカのバンソウコウだらけの指先を庇うようにアスカの手を握った。

 「ば、馬鹿馬鹿馬鹿っ!

 アスカは顔を真っ赤にすると僕を突き飛ばすようにして台所を飛び出して行った。僕はアスカの背中を笑顔で見送って、台所を綺麗にすることに専念した。

 「あらまぁ・・・。これじゃあたまにアスカに料理してもらった方が台所が綺麗になって良いわねぇ・・・。」

 様子を見に来たキョウコおばさんが目を丸くしている。

 「え?じゃあ、前より綺麗ですか?」

 「勿論よ。使ってなかっただけだから・・・。」

 キョウコおばさんはうんしょ、と一声かけてから脚立に上がると天井を拭き始めた。

 「ここまで来たら、最後まで綺麗にしたいでしょ?」

 そう言ってにっこり笑う。

 やっぱり母娘だ。

 やりかけたことはとことんまでやる辺り、アスカそのもの。

 僕はキョウコおばさんの背中にアスカを重ねながら掃除した。



 シンジ・・・。

 あたしはシンジの部屋の前を熊のように行ったり来たりしていた。

 シンジは今シャワーを浴びている。

 帰ってきたら・・・キスしてあげる・・・。

 部屋に鍵、かかるから・・・今日は・・・もっと長く。

 そのくらいは、いいと思う。

 あ、でも、あたしがシンジだったら、どうだろ?

 あたしは想像の中でシンジとの会話をシミュレーションしてみた。

 (あのね、シンジ、病院にお見舞いに来てくれたし、いろいろありがとうだから、キスしてあげよっか?)

 (いいよ、アスカ・・・別にそれが目的でお見舞いに行ってたわけじゃないから・・・。)

 うーん、シンジ、なんていい奴!

 あたしは一人で照れまくっていた。

 (で、でもぉ・・・。)

 (いいっていいって、じゃ、また明日。)

 なぁんて言ってさりげなく扉を開けて・・・って、がちゃ?

 あたしが調子に乗ってノブを回すと、シンジの部屋の扉はあっさりと開いた。

 なんで開いちゃうの?

 シンジぃ・・・。

 いい加減自分の部屋の鍵くらい閉めなさいよ・・・。

 あたしはぶつぶつ文句をいいながら、そっと扉を閉めた。

 ふわっ・・・。

 ・・・?

 なに?これ・・・?

 あたしはおそるおそる、もう一度シンジの部屋の扉を開いた。

 そーっと首を部屋の中に突っ込む。

 ・・・・・・?????????

 ・・・どうして・・・?

 あたしはそっとシンジの部屋の中に入って行った。



 「アスカが料理ねぇ・・・イタリアにいた頃には考えられなかったけどなぁ・・・。」

 シンジは石鹸を使って手にこびりついた油を洗い落とした。

 シャワーを浴びて一気に髪の毛を洗う。

 (あの頃は同棲していた割にはあんまり仲良くしなかったなぁ・・・毎日の生活でお互いに疲れてた感じだったし・・・。ドイツ来てからいいことばっかりだね。)

 後は友達がもう少しいれば・・・あ、そう言えば、さっき霧島さんがカヲル君がこっちに来るとか来ないとか言っていたけど、あれって、いつのことだろう・・・。明日聞いてみないと・・・。

 シンジはきゅっとシャワーの栓を捻ってシャワー室を出た。

 ふんふんと鼻歌の一つも出てしまうくらい身体の調子がいい。戻ってきてリラックスできるのはいいことだ。

 「アスカぁ、シャワー、空いたよ。」

 アスカの部屋をノックしてから自分の部屋に戻る。

 「おかえり。」

 「うわっ!!

 予想外の返事にシンジは飛び上がって驚いた。

 「ふぅん・・・やっぱり、やましいことがあるんだ。」

 アスカは目を細めてシンジを睨んだ。

 シンジにはアスカが何を言っているのかさっぱり判らない。

 「な、な、なんのことだよ???

 何故かは判らないが嫌な予感がする。シンジは少なからず動揺した。

 「随分焦ってない?ちょっと、そこに座りなさいよっ!

 アスカはいきり立ってシンジを怒鳴りつけた。

 「な!なんでだよっ!

 シンジもわけも判らず怒鳴られて思わず大声を出した。

 「へ、部屋の匂いを嗅いでみなさいよっ!!!

 アスカはシンジの大声に一瞬怯んだものの、気を取り直すとまた大きな声でシンジにくってかかった。

 「へ?匂い???」

 くんくん・・・。

 シンジは言われるままに匂いを嗅いでみた。

 「別に?何も匂わないけど・・・?強いて言うならちょっと埃っぽいかな?別に変な匂いはしないし・・・。」

 シンジは怪訝そうに小首を傾げたが、それを聞いたアスカは激しく腹を立てた。

 「んもうっ!し、白々しい・・・。嘘つきっ!

 ぱしぃーんっ!

 アスカはいきなりシンジの頬を張った。不意打ちを食らったシンジは目を丸くしていたが、次の瞬間には怒り出した。

 「な、なにすんだよっ!

 怒るシンジの鼻先に、アスカはシンジが今日来て行った上着を突き出した。

 「なんだよっ!

 シンジはアスカの手を払うようにして上着を顔の前からどけたが、アスカは無言で再びシンジの顔に押し付けた。

 「なんだって・・・。」

 くんくん・・・。

 

 「香水・・・。香水の、匂い・・・染み付いてる・・・。お、女もの・・・の、香、水・・・。」

 アスカの声が滲む・・・。

 「い、いや、違う、アスカ、絶対違うって・・・。」

 シンジは焦って顔の前の上着を払ったが、アスカの目に浮かんだ揺れる光に気を取られている間にアスカが懐に飛び込んできてしまった。

 「こ、この、香水・・・ま、マナの・・・。」

 アスカは高ぶってしまった感情を止めることも出来ずにシンジの胸を殴りつけた。

 「いや、アスカ、違うから!絶対違うから!!

 それ以上叩かれないようにぎゅっとアスカの手首を握る。

 「い、いやっ!触らないでよっ!馬鹿シンジっ!!

 ・・・うーん、と・・・アスカの方が掴みかかっているんだけど・・・と、シンジは取り乱したアスカの無茶苦茶とキョウコのそれとを比較していた。

 「あ、アスカぁ・・・僕の話も聞いてよ・・・。」

 シンジは手を振り解こうともがくアスカに優しい言葉で話しかけた。

 「うるさいうるさいうるさぁいっ!!

 アスカはいやいやをするように首を振った。アスカの伸びてきた髪がシンジの顔をぱたぱたとはたいた。

 「ちょっと・・・暴れないで・・・。」

 アスカが身体ごと力任せに身体をシンジから離そうとしたのでバランスが崩れた。

 「危ないってアスカ・・・あっ!!

 どたーん!

 シンジはアスカの頭を庇うように右腕をアスカの頭に回して倒れた。

 二人の距離が無くなる・・・。

 密着した二人はしばらく無言でそのままの姿勢を保っていた。

 もう少し、このままで、いたい。

 それは、二人の素直な気持ち・・・。

 互いの心臓の音が聞こえるのでは無いか、と思えるほど・・・。

 初めて、こんなに近くにいる。

 が。

 「ちょ・・・っと・・・重い・・・。」

 アスカはぐっとシンジの身体を押し上げた。離れないといけない。このままじっとしていると、自分がシンジを許したように思われてしまう。

 (あたしはまだあんたを許して無いわよ。)

 アスカは少し強めにシンジを持ち上げて無言の抗議をした。

 「ご、ごめん・・・。」

 シンジは謝ったが、身体を動かそうとしない。

 「重いってば・・・。」

 アスカは無理矢理シンジの体を持ち上げると、シンジの腕から転がり出た。

 「あのさ。アスカ、本当に何でも無いんだ。ただ、国際電話の掛け方を聞きに行っただけだし・・・。」

 シンジはアスカのジーンズを引っ張るようにして事情を説明した。

 「そんなの、あたしに聞けばいいじゃない。それに、だからってどうしてマナの家に行く必要があるのよ?」

 アスカはシンジの手を引き離すようにして足を引っ込めた。

 「いや、待ってよ!僕だって別に行きたくて行ったわけじゃ・・・。ただ、霧島さんが自分の家に行かないと判らないと言うから・・・。」

 シンジは詳しくその時の様子を説明した。

 「馬鹿ねぇ・・・なんでそんな見え見えの嘘に乗るのよ?」

 アスカは呆れたように腕組みをした。

 (もう一息だな・・・。)

 シンジはアスカが腕組みをするパターンから、アスカが少し態度を軟化させたことを感じ取った。

 「う、嘘・・・かなぁ?」

 そうは思えなかったが、ここは取りあえずアスカの言う通りに頷いておく。

 「そうに決まってるじゃない。あんたを部屋に連れて帰るための口実よ。」

 全く馬鹿って言うか・・・人がいいって言うか・・・。あ、いけないいけない・・・。

 アスカは少し頬が緩みそうになって、無理に怒っている表情を作る。

 「と、とにかく、ごめん。ご飯作ってもらったから断り切れ無かったんだよ・・・。」

 シンジは両手を合わせて謝った。

 ぴき?

 「なんでよ?」

 アスカは目を吊り上げた。

 「な、なんでって・・・ご、ご飯作ってもらって・・・。」

 がつっ!

 アスカはいきなりシンジの頭を殴りつけた。

 「は、早く帰って来てって言ったでしょうっ!?」

 「ち、ち、違うって!お、お昼ご飯・・・!お、お弁当・・・。」

 シンジはアスカにがっちり首を締められて、苦しい息の中から答えた。

 「なんでそんなものマナに頼むのよっ!!

 「痛い痛い・・・爪立てるなって・・・霧島さんが勝手に作ってきたんだよぉ・・・。」

 シンジの答えを聞いたアスカはシンジを投げ捨てるようにして解放した。

 けほけほっというシンジの苦しそうな咳も耳に入らない。

 アスカはふらふらとシンジの部屋を出て行った。

 自分の部屋に戻り、鍵を掛ける。

 身体をベッドに投げ出すようにする。

 それからしばらく、アスカはバンソウコウだらけの指をじっと見つめた。

 「・・・負ける・・・もんか・・・。」

 ぼそりと呟いたアスカは布団をかぶって無理矢理に目を閉じた。



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