転校生 S
作 : Ophanim
第4話 溶けた、飴玉






 アスカが帰ってしまった。
 きつい一言を残して・・・。
 一人になったら、寂しさがひどく身に滲みてきた。
 お腹も、すいた・・・。

 「とりあえず、ご飯でも食べようかな・・・。」

 アスカのお父さんがいるときから結構お腹がすいていた。材料は台所に置いたままだった。

 「さて、ルンピアン・サリワ(野菜の卵クレープ焼き)でも作るか・・・。」

 名前だけは本物だけど、そんなに手の込んだものは出来ない。卵焼きの中にお肉や野菜を巻き込むだけだ。そんな料理にこんな上品な名前を付けてくれたのも、アスカだった。レシピを覗きながら、”シンジのこれって、これに似てるよね?”なんて言って・・・。

 「あ・・・作り過ぎた・・・。」

 いつもの調子で作っていたら、アスカの分まで作ってしまった。
 仕方がない・・・。

 「すいませぇん・・・。」

 僕はお隣さんにお裾分けに行った。暖かいうちに食べないとどうせ美味しくないんだ。

 「おおきに!我が友!!(べ、別にこの人が関西弁だった訳じゃないけど、僕には関西風に聞こえた、っていうだけ・・・。)」

 僕はイタリア式の大げさな挨拶にへいこらしながら自分の部屋に逃げ込んだ。

 「いただきます・・・。」

 答える声は無い・・・。

 「・・・まずい・・・。」

 一人で食べる夕御飯は想像以上にまずかった。
 のそのそとシャワーに行く。

 (一人になると、着替えの時に気を遣わなくていいのがいいかも知れない。)

 そんなことを考えながら、シャワーを浴びる。
 でも、それは間違いだった。
 シャワー室を出てもタオルが無い。
 それはそうだ。
 いつもなら、僕がシャワーを浴びている間に、そっとタオルや着替えを置いておいてくれるアスカがいないからだ。
 僕は濡れた髪の毛からぽたぽた水滴を垂らしながらタオルを探した。
 涙が出てきた。
 情けない・・・。
 好きな人を、引き留めることさえ出来なかった。
 その事実が、一層気分を暗くする。

 「もう、眠ろう・・・。」

 僕はこの部屋に来て初めてベッドで眠れる、と少し前向きに考えることにした。
 つい昨日まで、いや、今日の朝まで、アスカが眠っていたんだ、と思うと、布団をめくるときに、少しドキドキした。
 ふわっという甘い、微かな、アスカの香りがする・・・。
 僕は丁寧にもう一度布団を敷き直して、床にいつもの自分の布団を敷いた。

 (アスカの臭い・・・残しておきたいからなぁ・・・。)

 つい数時間前、僕の手の中で涙を流していた、僕の、アスカ・・・。
 僕は小さく丸まりながら、布団をかぶった。



 この部屋は僕の生活費では少し高い。
 でも、部屋を引き払って渚先生の所に行くことは出来なかった。
 勿論、渚先生は喜んで僕を受け入れてくれるだろう。
 でも、部屋を引き払ってしまったら、アスカはもう二度とここには戻らないような気がしたんだ。
 連絡を取る手段が無いから、いつアスカが扉を開けてもすぐに受け入れられるようにしないといけない。
 なにしろ、アスカに電話や手紙をしようにも、僕はイタリア語だってまともに話せない。ドイツ語なんてとてもとても・・・。
 だけど、そうこうするうちに生活はますます苦しくなっていった。少ないとは言っても、この間まではアスカがアルバイトをしていてくれたんだから、減った収入は直接家計に響いてくる。そこは食費を削ったりして何とかやりくりをしていたんだけど、ちょっとした風邪をひいたときにあっと言う間に赤字になってしまった。保険の利かないこの国での薬代を甘くみていたからだ。
 大家さんに事情を説明して今月の支払を待ってもらう相談をしていると、この間のお隣さんがちょうど顔を出した。

 「なんや?碇はん、お金困ってはんのか?なら、わしがいいバイト紹介したるわ。着いて来なはれ。」

 僕は断る暇もなく彼に連れ出されてしまった。

 「碇はん、楽器やらはるんやろ?ほな、好都合やさけ。あそこにおっちゃん見えるやろ?あんな風にやんのや。」

 そう言われて彼の指さす方を見れば、みすぼらしい老人がバイオリンを片手に何やら曲を弾いていた。

 「だ、大道芸をやるの?」

 僕は驚いて彼を見た。

 「そうや。練習もでけて、一石二鳥や。毎晩彼女と一緒やと練習もでけへんやろ?眠らせてもくれへんかもしれんけどな。」

 そう言うと彼はあはは、と軽く笑った。

 「い、いやその・・・彼女は、もう・・・。」

 僕はもごもごと口ごもった。

 「なんや!別れたんかぁ?わしの見たとこ、あのべっぴんさん、碇はんにベタ惚れやったけど、女はわからんのぉ・・・。無理矢理にしたんと違うかぁ?まぁ、女なんぞ掃いて捨てるほどおるやさけ、気にせんと頑張りや。ほれ、いざとなったらわしらには太陽がおる・・・。」

 き、気を遣ってくれているのかそれとも、単にからかいたいのか、判らない・・・。

 「で、でも、これ、どうしてアルバイトなんですか?どこでも出来ることじゃないです?」

 僕は話題を変えようとした。

 「何言うてまんねん。縄張りっちゅうもんがあるやろ。ここの場所使ったら場所代納めんのが当然やろ?せやけど、こないだの卵、うまかったさけ、場所代はあれでええわ。今日の場所代はこないだの卵っちゅうことで・・・。明日からはちゃんと払ろうてもらうで。」

 へ?場所代??縄張り???

 「そ、それってもしかして・・・。」

 僕の背中に冷たい汗が一気に吹き出てきた。

 「せや。わし、マフィヤやねん。」



 「とりあえず課題曲の練習でもするか・・・。」

 僕はとにもかくにも演奏を開始した。できるだけ目立たないように・・・。

 (今日さえ乗り切ってしまえばいいんだ。あとはあの人達とは関わりを持たないようにしないと・・・。)

 脂汗のような冷たい汗が身体中を流れてうまく弾けない。
 簡単なところでもひっかかってしまってミスを連発する。
 午前中が終わっても僕の前に置かれた缶にはお金が少しも入らなかった。

 「おい。」

 びくっ!
 おそるおそる振り返ると、ごく普通のサラリーマン風の男が立っていた。だけど、この人も多分マフィアの関係の人なんだろう。僕の隣に住んでいた人なんて、普通も普通。映画の中に出てくる、夏でも黒い服を着てサングラスをかけて歩いている人なんて、いやしない。

 「ちょっと来い。」

 普通の人に見えるのに、声にものすごい重みがあって逆らえない。
 僕は黙ってその人の後に着いて歩いて行った。すると、その人は高級料理店に入った。僕が躊躇していると、扉を開いて待ってくれている。僕はおそるおそる中に入った。

 「飯食わせてやる。話も、ある。」

 彼はそう言って給仕係を呼んだ。すると、まだお昼時だというのにまるで料亭のような奥まった部屋に通された。注文も取っていないのに料理が運ばれてきた。

 「失礼だが、名前は名乗れない。君の名前も聞かない。知ってしまったら、君は俺の組織の中に入ってしまうことになることを忠告しておこう。この後、君が俺の名前を聞いたら、それは即君が俺の組織に入る意思表示をしたことになる。いいな?」

 僕は必要以上に激しく頷いた。

 「ま、そう固くなるな。事情は聞いている。俺の子分から報告があって?なんでも、飯をおごってもらったそうだな?しかも、かなりの味だった、といって喜んでいたぞ。」

 僕はただじっと下を向いていた。なんとなく、食べてしまったらもうそれでおしまいのような気がする・・・。
 でも、空腹にこの香り・・・。
 結局僕は耐えきれずにナイフを手に取った。

 「い、いただきます・・・。」

 僕は最近の食卓事情を反映した食べ方で出てくる食事を次々に平らげた。

 「食べながらでいい。話を聞け。君は俺らの仲間になるような人間ではない。」

 彼は運ばれてくる食事には手をつけずに話している。

 「はぁ・・・。」

 僕は口の中のものを飲み込みながら答えた。

 「今なら、抜けるのは簡単だ。だが、ぐずぐずしていると、二度と向こう側には戻れなくなるぞ。」

 僕は黙って彼の言葉を聞いていた。そんなこと、言われなくたって判ってる。

 「だが、このままでは君はジリ貧だ。この数日を乗り切ったとしても、すぐまた金に困り、俺のグループ以外の組織に捕まるに決まっている。」

 む・・・。
 情けない話だけど、彼の言う通りだ・・・。
 僕は無言で頷いた。
 その様子を見た彼は唇のはじっこで笑った。

 「君をこの場所に連れてきたのは君とこんな内密の話があったからだけではない。窓の外を見てみろ。」

 言われるままに窓を覗く。
 さっきのおじいさんがバイオリンを手に取って曲を弾いていた。それがここまで聞こえてこなかったのは、その周りに人垣が出来ていたからだ。耳を澄ますと、綺麗な音楽が流れている。

 「上手だなぁ・・・。」

 僕は思わず聞き惚れていた。

 「そうか?技術だけなら、君の方が遥かに上だと思ったがな。」

 僕は彼を振り向いた。

 「音楽が判るんですか?」

 聞きようによっては皮肉にも取れる言葉だったけど、彼は平然と受け流した。

 「判らんさ。だが、人の数を見ろ。それが全てだ。」

 その言葉に、はっと気がついた。もう一度外を見る。
 さっき、僕の周りに、人はいただろうか?
 僕は黙って席に戻った。

 「今日はごちそうさまでした。」

 深々と頭を下げる。

 「なんだ、もう行くのか?」

 僕は、はい、と短く答えると楽器を手に取って足早に店を出た。



 「なるほど、なかなか見所のある少年だな、渚・・・。」

 先ほどまでシンジを歓待していた男は背後の暗闇に話しかけた。

 「そうだろう?そうでなくては困るんだ。」

 渚はするすると暗闇から姿を現した。そしてさっきまでシンジが座っていた席を陣取る。

 「どれ、私達も御昼にするとしよう。」

 男が声をかける。

 「最高の音楽をBGMに出来ることをお約束しましょう。」

 渚はそう言ってグラスを高く掲げた。



 僕はさっき自分が立っていた場所に立った。
 チェロが入っていたケースを開いて中に小銭を入れる。少し小銭があった方がお客さんがお金を入れやすいんだ、と聞いたからだ。
 そして簡単に音合わせをする。
 そのまま、”お客さんを待つ”。
 僕は、どこかでお客さんを区別していた。
 いつのまにか最初の気持ちを忘れていた。
 僕の相手は、オペラハウスやコンサートホールに来てくれる人だけじゃない。
 まして、オーディションの審査員なんかでは、断じて無い!
 僕の相手は、僕が相手をしなければならないのは、”僕の演奏を聞いてくれる人達”だ。その人達を大事にしなければならない。今、目の前にいる浮浪者のような人、子供達、林檎売りのおばあさん達が、どうして僕のお客さんでないはずがある?
 目の前に小さな女の子がやってきた。

 「お兄ちゃん、今日、私の誕生日なの・・・。」

 僕は女の子の視線までしゃがんだ。でも、女の子は僕の視線を避けるように更に下を向いてしまった。

 「でもね、お父さんもお母さんも、私のこと、忘れているの。きっと、私、邪魔な子なの・・・。」

 涙を浮かべている女の子を撫でてあげる。

 「そんなこと無いよ。ね、僕がHappyBirthdayを弾いてあげる。」

 僕はそっと椅子に座った。チェロを構えて曲に入る。
 この子のために・・・。
 僕は目を閉じ、一生懸命に弾いた。
 弾いたことの無い曲だったのでおぼろげな記憶に頼ってメロディーを追いかけなくちゃいけない。だから、所々間違えてしまった。
 くすくすくす・・・。
 笑い声が漏れてくる。
 恥ずかしい・・・。
 頑張れ!と声が掛かる。
 とても嬉しい・・・。
 弾き終わって目を開いた僕の周りを、いつの間に集まったのかたくさんの人が取り囲んでいた。その人達がみんなで拍手をしてくれる。

 「お兄ちゃん、ありがと。これあげる。」

 女の子がしっかり握っていた拳を開くと、小さな飴玉が出てきた。

 「ありがとう。」

 僕は、その半分溶けたような飴がとても嬉しくて、目が潤んだ。

 「おい、日本人。次は俺達のために弾いてくれ。」

 「いや、待て!こっちが先に聞いていたんだ。こっちが先だ!」

 「待って待って。今日は我々の街のチームの大事な試合だ。おい、少年。こういう曲なんだが、出来るか?」

 喧嘩になりそうなほどリクエストが来る。
 僕はその一つ一つを一生懸命弾いた。
 最初のカップルのために甘いメロディーを、仕事に疲れた人のために優しい曲を、そして、この街のサッカーチームの応援歌を・・・。
 イタリアは世界でもトップクラスのナショナルチームとサッカーリーグを持っている。地元のチームを応援する気持ちは最も人々の心に共通する。
 応援歌を弾くとみんなが足を踏みならすようにして合唱しはじめた。
 その声に引かれるようにして、少し年輩の女の人がやってきた。

 「あぁ・・・ここにいたの?」

 女の子の頭を撫でる。

 「あ、ママ・・・。」

 「ごめんね。あなたのお誕生日のプレゼント買うのに残業ばっかりでこのごろなかなかかまってあげられなかったわねぇ・・・。」

 女の子は母親の胸に抱かれて微笑みだした。

 「あのね。お兄ちゃんにお祝いの歌弾いてもらったの・・・。」

 さざめくようなざわめきが広がっていく。
 女の子が去ってしまうと霧雨のような音と一緒にたくさんの硬貨が僕のチェロケースに降り注ぎ始めた。
 これだった・・・。
 この、感動こそ・・・この、喜びこそ、僕が求めてきたものだ!



 僕の街頭講演も軌道に乗ってきた。
 お金の心配もとりあえず無くなった。雨が続くとまだピンチだけど・・・。
 貯金が出来たら、ドイツに行くつもりだ。そのためには、贅沢なんて出来ない。
 そんなある日、僕が部屋に戻ってくると、玄関の前に誰かが立っていた。

 「あ、シンジ君・・・。」

 え?

 「きょ、キョウコおばさん・・・?」

 アスカのお母さんだ。久しぶりだったのでちょっと考えたけど、昔見たままの顔だ。

 「あぁ、よかった。シンちゃん。お願い。アスカを助けて・・・。」

 どくん!
 僕は胸の奥から湧き上がってくる不安を抑えられなかった。


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