Canon 〜外典〜前話
  by Ophanim次話
 第25話 素質の違い:Aパート目次





 とん、と。

 触れた方は、身体が触れたことも気付かずに歩き去っていった。

 が、触れられた方には大きな影響があった。

 小さな手からお祖母さんにもらった手鞠が落ちて、ころころと転がったのだから。

 「あ。」

 咄嗟に拾い上げようと身体を折った美汐は、周囲を見ることも無しに手鞠を追った。

 彼女が今の今までいた歩道ならば何のことはない風景だが、鞠が転がったのは車道だった。

 悲鳴が上がる間もなく、車が突っ込んでくる。

 「危ないよ。」

 その時、美汐の耳にそんな声が聞こえたかと思うと、ひょい、と空中に持ち上げられた。

 間一髪。

 ほんの一瞬前まで美汐がいたところを車が猛スピードで通り過ぎた。

 「あ、ありがとうございます、その…。」

 「ああ、礼には及ばないよ。僕の仕事だから。」

 美汐を抱き上げていた男性は、そう言って微笑みかけた。

 その瞬間、美汐の胸が大きな鼓動を打った。

 中学生か高校生だろう。

 夕陽を浴びて栗色に光る髪の毛が印象的だ。

 どんぐりのように人懐っこい目が、笑うと無くなりそうなほど細くなる。

 「あ、あの、あの…。」

 「あ、そうそう。これも無事だからね。大切なものなんだろ?」

 男性はそう言って美汐を抱いていたのと別の方の手を出した。

 丹念に糸で縫い込んだ手鞠が全く無傷で顔を出す。

 と言うことは、位置関係から言って彼は美汐を抱き上げる以前に手鞠を拾い上げていたことになる。

 そしてそれは、時間関係から考えてほとんど不可能な出来事だ。

 だが、危険から逃れた興奮と運命の出会いの予感とで著しい高揚感にある美汐には、そんなことに気付く余裕はなかった。

 「そ、そうじゃなくて、その、お名前を…。」

 「あ〜、これは失礼。」

 男性は苦笑いをしながら頭を掻いた。

 「僕は羽生希望(はにゅうのぞみ)。羽生で良いよ。」

 「私は、天野美汐と申します。」

 丁寧に頭を下げた美汐は、ときめきで沸き立つ心の隅で、この好青年との年齢差を計算していた。

 まさかその年齢差が数百になろうとは、この時の美汐には想像も出来なかった。



 がちゃんっ、と激しい音がして、皿が一枚割れた。

 壁に当たって割れたその皿に、重力に逆らう力を与えた女が、忌々しそうに皿を避けた男を睨んだ。

 「ちょこまかと…口先だけの割に逃げんのは一人前みたいね。」

 罵られた男の方は、というと、怒るでもなく恥じるでもなく、困ったような表情でびくびくとしている。

 ”次の皿をどうやって避けようか”、それだけが関心事のようだ。

 「そんなだからぽんぽんぽんぽん首になんのさっ!あたしがどんな思いして身体を張って稼いでっか判ってんのっ?

 「そ、それは判ってるつもり…。」

 「したら、なして仕事を辞めろなんて言えんのさっ!?

 ただでさえ怒っていた女は、時間を追う毎に更に激昂してきた。

 男はおろおろしながら言葉を継いだ。

 「んだって、子供の教育に悪いべさ…。」

 今日だって他の子供達から避けられている現場を目撃した。

 このままでは将来が心配だ。

 「それがあたしのせいだって?益男、あんたが働かないからだべ?」

 「それもあるかもしれんけど、やっぱり梢、お前の仕事が…。」

 梢と呼ばれた女の目が厳しく揺らめいた。

 その無言の圧力に押される益男はそのまま口を噤むしかない。

 それがこれまでのルールだった。

 だが、今日の益男は違った。

 「お、お前が、夜の店で男を取って働いてっから、んだから、あゆが…。」

 そこから先は言わなくても同じだ。

 あゆが他の子供達から避けられる。

 子供達の親があゆと遊ばせたがらない。

 あゆが可哀想だ。

 恐怖で身体を震わせながらも、益男は父親としての責任を果たそうとしっかりと大地を踏みしめていた。

 「…して?(それで?)」

 意外にも梢は怒らなかった。

 静かな口調で続きを促す。

 「あゆば殴んのもやめれ。年がら年中脅えてるべ?」

 梢が腰に手をやったので、益男は咄嗟に顔を庇った。

 何かが飛んでくると思ったのだ。

 だが、梢が手にしたのは煙草だった。

 「…ふん、脅えでんのはおめえだべ?」

 益男の様子を見てそう嘲笑した後、梢は悠然と煙草を一服した。

 ふ〜っと長いため息と共に煙を吐き出す。

 それからしばらく沈黙が流れたが、突然梢はくしゃくしゃ、と髪を掻きむしり、おもむろに切り出した。

 「いいよ。あたしは。」

 「おお、判ってけだか…。」

 「勘違いしないで。」

 梢の過剰に冷静な口調に、益男は梢が何か大事なことを言おうとしていることに気がついた。

 言葉も標準語に戻っている。

 改まった態度で何か重要な決定をするときに彼女がよく使う手だ。

 「な、何?」

 「別れてもいいって言ってるのよ。りこ…。」

 「ただいまっ!

 緊迫した雰囲気を無視するような明るい声が部屋に響いた。

 扉を開けた少女は、上機嫌で部屋の中に入り込んでくる。

 「あゆ。あんたはちょっとあっち行って…。」

 「今日ね。友達と隠れん坊してて一番になったよ。」

 「隠れん坊……?」

 「あ…っっはっははは。なぁんだ、またいつものあんたの見間違いじゃないの…。隠れん坊ね。なるほどねぇ。」

 梢はおかしそうに笑った。

 いつも益男が大袈裟なことを言うが、あゆの説明を聞けば通常の遊びの範囲内だ。

 「お母さん、お腹空いた。」

 あゆがお腹を押さえながら甘えた声を出した。

 母親の腕にそっと取り付き、母親が腕時計を見る直前の絶妙なタイミングでさりげなく手を離す。

 「そうねぇ。こんな時間だし…。あんた、夕飯の準備は?」

 「あ、あいや、まだだけども…。」

 「ほんっと愚図ねぇ…。じゃあさ、何か店屋物をとろっか?」

 梢は不満そうに鼻を鳴らすと、あゆにむかっては猫撫で声を出した。

 どうやらすっかり機嫌を直したようだ。

 普段自分に懐いていないと思っていた娘が、父親よりも先に自分に甘えてきたからだ。

 「ボク、クッキーが良いっ!

 「馬鹿ねぇ、この子は…。」

 「えへへ…。」

 あゆは母親に頭を小突かれて苦笑いをした。

 「それじゃ、丼にするわよ。ほら、適当に注文取って。あんたが変なことばっかり言って夕飯の用意をして無い方が問題だわ。あゆ、あんた、こんな大人になったら駄目だよ?」

 梢はあゆを出汁に益男に更に文句をぶつけて話を切り上げた。

 昼のパートに続き、今度は夜の仕事に出るためにこれから入念に化粧しなければならない。

 女一人の稼ぎで家族三人を食わせるのは容易ではない。

 彼女が部屋を去った後、益男は不満そうにあゆを見つめていた。

 「あゆ、隠れん坊だって?」

 「う、うぐぅ…うん。」

 あれが?

 「んだって、あゆ、お前、隠れてなかったべ?」

 隠れん坊というのは、鬼が隠れている人を見つけるものだ、と思う。

 立って歩いている人が周囲から無視されているのは、隠れているのとは違う。

 「うぐぅ…そういうルールなんだよっ。新しい隠れん坊。」

 あゆは精一杯明るく振る舞って父親に笑いかけた。

 それが堪らなく辛い。

 外から帰ってきてすぐに飛び込んできたはずのあゆが、割れた皿で怪我をしないよう、しっかりスリッパが履いていたことに、益男は気付いていた。

 確かに、仕事を首になり、養ってもらっている状態は自分でも情けない。

 だが、勇気を振り絞ってあゆのために抗議をしたことくらい判って欲しい。

 せめて自分には本当のことを言って欲しかったのに…。

 そうでなければ、折角反抗した意味がない。

 それなのに…。

 「遊んでたんだよ。みんなと。」

 あゆは笑顔でそう言った。

 みんな。

 そうは言うが、具体的な名前が出たことは一度もない。

 それでもあゆは、みんなと遊んでいる、と繰り返す。

 昨日も、今日も、恐らく、明日も…。

 「それに、お母さんが何をして働いていても良いんだよ。ボク、社会で習ったもん。仕事に良い悪いは無いって。働かない方が駄目なんだよ、お父さん。」

 あゆの背後で、梢が”そらみたことか”と悠然と胸を張った。

 お父さんが仕事したければしていいんだよ、とあゆが追い打ちをかける。

 日雇いのアルバイトをすることで、あゆが一人になることを心配して悩んでいたのだが、こうした形で返されるとは…。

 「…そうか…。お前が良いなら、それでいいんだ…。」

 益男は呟くようにそう言った。

 そして肩を落として出ていった。

 部屋にはあゆが一人残された。

 ふぅ、というため息に脱力感を込め、あゆは静かに、殆ど日課になっている割れた皿の掃除を始めた。



 権三は自分の判断を疑い始めていた。

 目の前にいる女医はさっきからカルテをぶちまけたり薬をこぼしたり、ペンを取ろうとしてペン先に自分の手を突き刺したりと落ち着きがない。

 話し方もほわほわとしていて威厳が無い。

 他愛もない世間話は余りにも卑近すぎて、患者の緊張をほぐすためと言うよりは自分の興味を口にしているだけのように思える。

 如何に麗の勧めであっても、大事な主人の主治医となる人の人選ぐらいは自分でやった方が良かったか…と後悔がよぎり始めたときだった。

 「まず始めに、私を信用していただけますか?」

 突然、春香がそんなことを言ってきた。

 それが余りに出し抜けだったので、権三は

 「はぁ…まぁ…。」

と生返事をしてしまった。

 そんな返事でも、春香は嬉しそうに頷いて、カルテに何事かを書き込みながら話し始めた。

 「佐祐理さんには、まず自分が何をしたのか、それを判ってもらいます。」

 「え??」

 権三は耳を疑った。

 そんなことをしたら逆効果なのではないか?

 抗議の気持ちが表情に表れたのだろう。

 春香は一つ頷いてから説明を加えた。

 「お気持ちは判りますが、今のうちから罪は罪として認識されるようでないと、大人になってからも罪を罪とも思わなくなりますよ?物事を隠すにはそれ相応のリスクがありますから、きちんとした手順を踏まないと…。予定外に明るみに出たときに困ることになります。」

 春香の口調は優しかったが、話す内容は手厳しい。

 胸にしまっておくのが一番と信じて、佐祐理に母親と一弥のことを隠していた自分が情けなくなる。

 「今の佐祐理さんは自分がどれだけの重さの罪を犯したのか推し量れずにいます。罪の意識は大事ですが、その大きさを正しく把握できないと、罪を犯すことに躊躇いを覚えなくなったり、どこまでも自分を追い詰めたりしてしまいます。佐祐理さんは今後者の状態にあるわけですね。」

 ですから、と春香は権三にクリップボードを示した。

 そこには佐祐理を中心にした円が描かれ、倉田家の主要人物の名前が佐祐理を中心に書き込まれていた。

 「佐祐理さんが自立されるまで、どなたかにその罪の片方を受け持ってもらいたいのです。」

 一弥が死んだのは自分一人の責任ではない、と感じさせる。

 裏技に近い手法だが、佐祐理に積極的な”逃避”を促して佐祐理が感じる罪の意識を軽くする。

 佐祐理が自意識を確立させたら、徐々にその当時の事情を話して、その都度反省を促す。

 春香が誰を意識しているのかは明らかだった。

 「判りました。力不足かも知れませんが、私でよければなんなりと…。」

 権三はそっと頭を下げた。

 元はと言えば、自分が一弥の出産の時の事情を佐祐理に話したのが遠因だ。

 常々そうした意識はあったし、実際に春香に話もした。

 だから、春香が

 「すみません。ご協力下さい。」

と言ったとき、目の前のこの女医は、自分の罪滅ぼしも同時に出来るように計らってくれているのだと判ってしまった。

 やはり、川澄麗の紹介したこの医者は優秀だ。

 「それじゃあ、これから佐祐理さんに催眠をかけますが、完治する前に川澄さんに会ってしまうとさすがに呵責の方が強くて催眠が壊れてしまいますからね。その点注意してください。その代わり、川澄さんの娘さんと会うようにして下さい。」

 「どうしてですか?」

 権三は不思議そうに春香に尋ねた。

 娘に会っていたらいつしかその母親とも会ってしまうのではないか?

 「彼女には怪我を治す力があるんです。彼女と一緒にペットや野生動物の怪我を治してあげて、佐祐理さんが犯した罪の贖罪をしている意識を持たせて下さい。」

 「承知しました。ところで私の役割は?」

 権三は強い気持ちを持って質問した。

 どんな役柄が割り振られるのだろう?

 「いえ。あなたが以前に言っておられた通りです。あなたが一弥君の出産状況を伝えたから、佐祐理さんは母親の健康を奪った一弥君を憎むようになったと、そう話を作り替えるだけですわ。」

 但し、と春香は一つ付け加えた。

 「ついでですから、佐祐理さんの記憶からあなたの名前をぼやかしてしまいます。名前を覚えてもらえないことよりも、名指しであなたが悪いと言われる方が辛いでしょうから。」

 春香の配慮に、権三は無言で頭を下げた。

 心を扱う医者は、時として患者に信用されない。

 自分がそう思うように操作されていると構えてしまうからだ。

 だが、春香は違った。

 心から彼女を信用しているのは自分の判断だ、とはっきり言える。

 何しろ、最初は彼女を疑っていたのだから。

 治療の話に入ってから、春香の言葉の端々から垣間見えるのは、言いようのない自信だ。

 柔和な中にきりりと光る瞳からは、強い意志を窺わせる鋭い視線が流れ出ている。

 ゆったりと構えたその姿勢からは、全幅の信頼を置くに相応しい懐の広さを感じられる。

 「じゃ、次の日曜にでも佐祐理さんを連れてきてくださいね。」

 急にその威厳が失われて、権三は肩の力が抜けるのを感じた。

 話しぶりが元に戻ったのだ。

 「あ、あの…出来るだけ早い方が…土曜では?」

 「土曜は見たいテレビがあるから駄目です〜。」

 なぁんて冗談冗談、と手をひらひらさせる仕草も頼りない。

 どちらが本当の春香なのか、権三は首を傾げながら、今宵も主のいない倉田家へと帰っていった。


<続き>


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