| Canon 〜外典〜 | 前話 |
| by Ophanim | 次話 |
| 第24話 契約の夜:Aパート | 目次 |
-
「ただいま〜。」
祐一の声ががらんとしたアパートの中に響く。
いつものことなので今更寂しいとも感じないが、それでも一応、誰もいない部屋に向かって声をかけるのが習慣になっていた。玄関からランドセルを投げ捨てて、すぐに隣の部屋の水瀬家に向かいかける。
『お帰りなさい』
一瞬そんな声が聞こえたような気がして、祐一は振り向いた。
だが、玄関には履き物が残っていないし、注意深く見回してみても家の中に人のいる気配がしない。
「……空耳か?」
父親の嘉一も母親の春香も仕事に行っていて家にはいない。
泥棒が入るかも知れないが、金目のものなどありはせず、むしろ泥棒も哀れんで物を置いていくのではないかと思うほどすっからかんだ。
貧乏と言うほどではないが、何にせよ、”時間がない”。
嘉一の仕事はフレックスと言えば聞こえはよいが、実際は「年中無休」だし、母親の方は年中無休が一番幸せだが決して叶うことのない仕事で、休日や祝日にはむしろ大繁盛だ。
だから、今家の中には猫の子一匹いないはず……。
こんっこ〜んっ!
「あ、そっか。」
祐一は靴を荒々しく脱ぎ捨てて家の中に入った。
ベランダへと続く窓を開ける。
「お前を忘れてたよ。そう言えば、今日は俺が当番だった。」
祐一はそう言いながら、嬉しそうに啼く狐を抱き上げた。
その拍子に、真琴の首に提げられた鈴がちりんと涼しげな音を立てた。
「ただいまっ!お袋っ!秋子さんっ!親父っ!」
大急ぎで家に戻ってきた祐一は、家にいる確率が高い順に声をかけた。
顔を出したのは2番目に確率の高かった人だ。
「おかえりなさい、祐一さん………。あらあら、大きなおでん種…。」
「さようなら、秋子さん。」
くるりと踵を返した祐一だったが、後から追いついてきた名雪とぶつかってしまった。
背中から倒れた祐一の背後から狩猟民族が迫る。
「わ〜、駄目だよ、秋子さんっ!」
「大丈夫ですよ。」
ひょいっと狐を抱き上げた秋子の足に、転がりながら祐一がすがりつく。
「駄目だよっ!秋子さん、食べないでっ!」
「食べませんよ。」
秋子はにこにこと笑いながら、祐一の手をそっと取り払おうとした。
スカートから伸びる足の白さに気付いた祐一は、弾かれるように玄関に戻ると、そこで初めて靴を脱いだ。
雑巾を持って戻ってきた名雪がぎゃあぎゃあと文句を言っているが、狐や秋子の足が気になって全く耳に入らない。
幼心にも、何となく見てはいけないものを見てしまったような気がして、恐る恐る秋子の所に戻っていくと、ちょうど秋子が優しく狐の頭を撫でながら、傷ついた足を触っているところだった。
きゃんっ!という子犬のような声と共に、狐が背中を曲げる。
「折れてるかもしれないわね…。」
「全然大丈夫じゃないね…。」
秋子の診断に、祐一はがっかりしながらそう言った。
もしかしたら、自分達が余計なことをして足を折ってしまったのかも知れない、と後悔がよぎる。
それでも、添え木を探したり狐を励ましたりと、秋子の指示に精一杯答えていると気が紛れた。
狐の足を固定した秋子が消毒薬を探しに行っている間、留守を任された祐一は優しく狐を抱き抱えた。
「なぁ、お前。怒ってるかも知れないけど、治ったら絶対山に返すからな。」
祐一はすまなそうに狐に話しかけた。
その途端、警戒を解かずに祐一を睨み付けていた狐から、ふっと圧力が消えた。
「お、お前が話の判る奴で良かった。俺は相沢祐一。よろしくな。」
「何話してるの?」
名雪が祐一の声を聞きつけて不安そうに顔を出す。
この周辺の人間はみな知り合いだから安心だが、それでも事件が皆無というわけではない。
誰もいないはずの部屋に話し声がしたら気味が悪い。
「いや、こいつの足折ってしまったかもしれないから、謝ってた。」
「ん〜、でも、もう折れてたのかもしれないよ。罠をかけた人が来る前で良かったと思うし…。」
名雪はそう言って従兄弟を慰めた。
その言葉は祐一の気持ちを更に落ち着かせてくれた。
少なくとも、狐汁にされることは無くなったわけだ。
自分達は、良いことをした…。
「だけど、まだ問題が残ってるよなぁ…。」
祐一はさっき走りながら、舞が渋い顔をしながら教えてくれた狐の治療が難しいその理由を反芻した。
「あたしの力……この不思議な力でも、治せるときと治せないときがあるの。」
テレビ番組で必ず治療される様子ばかり目にしていた祐一にとって、それは初めて聞く弱点で確かに少し驚いたが、それほど大きな問題ではない。
「そうだったのか…。でも、それは普通のお医者さんだって同じだろ?」
「そうかもしれないけど、条件が違うの。お母さんやあたしの力は、患者さんによるから。」
舞の説明によれば、彼女達は基本的に全ての怪我や病気を治すことが出来る。
だが、そこには例外もある。
まず一つは、患者の寿命が既に残されていない場合で、これを治療することは出来ない。
こればかりは神ならぬ身にはどうにもならないことであり、さほど理解に難くない。
もう一つは、患者の側に”生きる”あるいは”治る”気力が無いときである。
治したいと思う側と治りたいと思う側の気持ちが一致しなければ、治療は非常に困難なものになる。
舞の経験では、心を通わせることなく成功したのは母親を死の淵から呼び戻した、あの一度きりだ。
あの時は母親にも不思議な能力があったこと、舞の一途な思いに誰かが手を貸してくれたことなど、普通ではあり得ない、特殊な条件が揃っていた。
従って、通常の場合、患者が完治を諦めていれば治らない。
それでなくても、動物と気持ちを合わせることは難しい。
特に野生動物の場合、大きな怪我をしてしまうと治るあてが無いからなのか、罠にかかったり狩りの獲物にされるなど、死に直面するほど追い詰められると、その運命を受け入れてしまう傾向がある。
「だから、この狐を治すことは出来ない。」
舞の答えは明解だったが、承伏しかねるものだった。
祐一はどうすれば狐が治せるようになるのかどうかを尋ねた。
舞が示した答えは、『恐怖が無くなってこの子が治りたいと思うようになったら』治せる、という曖昧なものだった。
それを達成するために何をしたらいいのか、具体的な言葉は無かった。
「…なぁ、この子、このまま家で飼ってみようか?」
「え?」
祐一の言葉に、従姉妹が首を傾げる。
だが、それが問いかけと言うよりはむしろ期待の現れであることを、名雪の瞳の輝きが如実に示している。
「人間が怖くない、って判れば治せるようになるかもしれない。」
「うん、そうだね。」
名雪は良く話を聞きもせずに賛成した。
理由はどうあれ、この狐を飼うことが出来る。
それだけで充分だ。
「ね、名前付けようよ。」
「沢渡真琴だ。」
祐一は名雪の提案に即答した。
「またぁ?」
舞をちゆ、と名付けたときと同じ発想に名雪が眉を寄せた。
祐一は余程あの番組が好きらしい。
と言うより、少し年上のお姉さんでもある”沢渡真琴”が好きなのかも知れない。
「強くなって欲しいからな。でも、ちゆって名前は使っちゃったから、真琴だ。」
「名字まで決めること無いじゃない。」
名雪はどうにか従兄弟の翻意を促そうとしたが、祐一の決心は予想通りに固い。
「いや、例えば、名雪の家で飼うなら水瀬だが、そいつはうちでも厄介になるだろ。そうすると相沢でもいいわけだ。もしかしてちゆの所に泊まれば川澄だな。そうなるといちいち面倒だからそいつの名前を決めないといけないわけだ、うん。」
だから、お前は沢渡真琴だ。忘れるな。
そう祐一が狐に言った時、どうした弾みか狐が頷いたように見え、結果としてそれが決め手になった。
満足げに頷いた祐一の鼻先を、狐の尻尾がくすぐっていった。
その感触はとても優しくて、ありがとう、と言っているように思えた。
それからもう一年が経つ。
最適かどうかは判らなかったが、かといって他の明暗も方法も思い浮かばず、何もかもが手探りのまま始まった。
言い出しっぺの祐一が最初に引き取って飼っていたが、それでは祐一だけに懐いてしまって”人間”への怖さは消えないだろう、という判断から、三人で代わる代わる面倒を見ることになった。
このところ名雪は舞の家に行かなくなり、その分一人で世話すると言い張っていたのだが、昨日たまたま水瀬家はそろって外出だったので祐一が家に連れ帰ってそのままだったのだ。
狐を抱いたまま隣の名雪の家に行くと、チャイムの余韻が消える前に、従姉妹が顔を出した。
「おかえり、まこちゃん。」
「おい、俺はどうした?」
「祐一は私と一緒に帰ってきたからいいの。」
名雪は平然とした顔で憎まれ口を叩いた。
そんな態度を取られても、祐一は満足だ。
従姉妹がこんなに元気になるとは想像以上だった。
一年前はベランダから外に出るのさえ渋っていたものだったが、舞と一緒に遊ぶようになってから、めきめきと身体が丈夫になっていった。
それは三人とこの狐の一匹で遊んだり追いかけっこをしたりしているうちに、真面目に追いかけていた名雪の足が鍛えられた所為だ。
今では祐一よりも足が速い。
もともと足の速かった舞に迫る勢いで、三人でかけっこなどしようものなら、祐一は二人から完全に置いて行かれる。
祐一は従姉妹が重そうに何度も抱き直している狐を見た。
「大きくなってきたなぁ、真琴。」
「…そうだね。」
名雪が答えるまでには少し間があった。
”真琴”の成長は、同時に、別れの時が近づいていることを示しているからだ。
みんなで遊んでいるときは、罠で傷ついたたために歪んだ足を引きずりながらも必死でついてくる。
今なら。
足を治したいと思っているはずだ。
そして、足が治れば。
山に返さなければならない。
それが三人で決めたルールだった。
(名雪は…辛いんだろうな…。)
本当のことを言えば、もっと早く治せた。
最近は舞の家は敬遠していて、名雪が面倒を見ている。
もう1日。後少しだけ。
そう思っている間に一年が過ぎた、と言っても良いだろう。
「…行こう。」
「うん。」
祐一が促すと、名雪は今度はすぐに返事をした。
名雪の目にはうっすらと涙が浮かんでいたが、瞳には力があった。
決心が出来たのだろう。
二人は連れだって家を出た。
別れの時が近づいていた。
「お食事はいかがいたしますか?」
「いらない…。」
まただ…。
権三は佐祐理に聞こえないようにため息をもらしながら途方に暮れた。
幼くして弟と母親を亡くしたとはいえ、まる一年経っても沈んでいるのはいくら何でもおかしい。
佐祐理は何かを隠しているに違いない。
そうは思っても、使用人に過ぎない権三が主人の娘を問い質すことなど出来ない。
だから、推測するしかない。
そしてその推測は九分九厘まで当たっているという自信がある。
(佐祐理お嬢様は一弥坊っちゃまに何か言ったに違いない。)
権三が佐祐理に伝えた内容、”奥様は一弥坊っちゃまをご出産されるために大変なご苦労をされたので、今は入院なさっているのです”という言葉を、そのまま、あるいは多少脚色して伝えたのだろう。
幼い一弥が自分を責めないように、と彼がある程度の年に成長するまでは秘密にするはずだったし、事実、使用人同士の雑談からも耳に入ることの無いように気を配っていた。
だが、もう充分大人だと思っていた佐祐理から伝わるとは…。
(佐祐理お嬢様が不憫に思えたからこそお伝えしたのだが…。)
そんな後悔が権三を襲う。
とはいえ、いつまでも後悔しているのは彼の主義ではなかった。
このままでは佐祐理のためにならない、ということが判っている以上、解決するために尽力するのが倉田家の執事たる彼の役目だ。
いっそ病気であってくれればいい。
それならば、この街にはそれを治してくれる一番の治療師がいる。
残念なことに彼の主人である倉田ではないが、そんなことはこの際関係ない。
権三は一人になると顔の前に腕を組んで深く考えを巡らせた。
治療師…川澄麗…。
彼女の存在が結果的に一弥を死に追いやったわけであり、かつ、今は倉田が病院を建築するに当たって一番の商売敵となるはずの人物である。
倉田が果たして娘を彼女に診せることを承諾するかどうか……。
「…それでも、何もしないよりはいい…。」
夜になるのを待って、彼女を訪れよう。
静かに呟くと、権三は顔を上げた。
彼にとって大事なのは彼に任された佐祐理の健康のことだけであり、その治療師が倉田の目的の邪魔になっていたとしても、佐祐理のために出来る最善を尽くすのが権三に任せられた仕事だ。
親のことではなく、娘のことを一番に考えたとき、答えは自ずから決まっていた。
<続き>