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| 第23話 変化の兆し:Aパート | 目次 |
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「迷った……。」
だだっ広い麦畑の広がる丘で、祐一は途方に暮れていた。
片手には虫取り網、もう片方の手には虫取り籠。
季節外れの赤トンボを追っていたら、こんな所まで来てしまった。
従姉妹の名雪に『こんな何もない場所で迷うわけがない』と大見得を切ってきたのがほんの30分程前。
何もないからこそ目印になるものもない、ということを悟るには、祐一はまだ幼すぎた。
加えて、自分の目線を遮るほどに伸びた麦が前後左右に広がっていて、もはや戻る道すら判らない。
「まぁ、いいか。どうにかなるだろ。」
ぽつりと呟いて腰を下ろす。
夕陽に照らされて黄金に輝く麦畑は勇壮で、いつまで見ていても飽きそうになかった。
じきに日が暮れる。
それまでの間、ずっとこうして黄金の海を見ているのも良いな、と思った。
夜になれば灯りもついて帰り道くらい判るだろう。
祐一は何処までも気楽だった。
6,7歳の子供にしては度胸が据わっている。
それはやはり、持って生まれた力が為す業なのだろうか?
「気持ちいいなぁ…。」
祐一が大きく伸びをして欠伸をしたとき、かさっと音がして兎が跳びだしてきた。
驚いた祐一が伸ばしていた手を地面についたとき、たまたま虫取り網の柄に手が当たって、ものの見事に兎を網の中に捕らえてしまった。
いくら北の田舎町とはいえ、野生の兎が自分から人前に跳びだしてくることなど尋常ではあり得ない。
案の定、その後ろから続いて子供達が飛び出してきた。
「待てっ…って、お前、誰だ?」
「あん?」
子供達は祐一と祐一の持っている網とを交互に見比べた。
祐一も彼らの視線を追って、網の中にいる兎を見上げる。
捕らわれた兎は、観念したように大人しくなっている。
今気がついたが、足の傷が痛々しい。
こんな年端もいかぬ子供達に追い詰められるほど弱っていたのは、この傷が原因に違いない。
「寄越せよ。俺達の獲物だぞ。」
子供達の中で一際大きな男の子がずいっと祐一の方に一歩身体を寄せた。
祐一よりも頭一つ大きい。
だが、祐一は悠然と胸を張っていた。顔には余裕の笑みさえ浮かんでいる。
「何だよ、お前達。この兎、食うのか?」
祐一の問いかけに、子供達は互いに顔を見合わせた。
一呼吸置いて嘲るような笑い声が麦畑に響く。
「あはははは、馬鹿か、こいつ?」
「そんなの食えるかよ。袋に入れて遊ぶんだよ。」
子供達の説明に、祐一は首を傾げて困ったような顔をした。
「う〜ん。食べるんだったら…命に感謝しながら食べるんだったら良いんだってお袋は言っていたんだけどなぁ。そんなにおかしいかな?」
「お袋ぉ?何だよ、それ。」
「やっぱり馬鹿だよ、こいつ。」
「こんなのに構っていられないよ。」
子供達の侮蔑の言葉を、祐一はやはり笑顔で受け止めていた。
祐一がこの辺りまで足を伸ばしたことはない。
だから、彼らを責めることは出来ないだろう。
祐一はゆっくりと網を降ろした。
その行動を”降参”と受け取った子供達が、祐一から兎を奪おうと近寄ってくる。
祐一は、薄ら笑いを浮かべながら、身じろぎもせずに立っていた。
「転ぶと痛いぞ。」
祐一は一番近くにいた子供にそう告げた。
言われた側は、きょとんとする間もなく、足下の木の根に足を取られた。
したたかに頭を打ち付けて額が割れる。
「大丈夫?」
「何があったの?」
口々にそんなことを言いながら、子供達が倒れた子供の周りに集まる。
倒れた子供は傷の痛みも忘れたように呆けたように口をぱくぱくと開いて、ただ祐一の方を指差していた。
子供達の心配そうな瞳が、次第に憎悪のそれに変わっていく。
「お前、何をした?」
「何をやったんだ?」
詰め寄る子供達に、祐一はただ笑っていた。
「注意しただけだよ。転ぶと痛いぞって。」
余裕の表情を浮かべる祐一に掴みかかろうと、一番大きな子供が立ち上がった瞬間、ぐきっという音がしてその表情が苦悶に歪んだ。急に立ち上がろうとして、麦畑の窪みに足を取られて挫いたのだが、祐一の言葉の後だけに得体の知れない恐怖感が子供達を支配した。
子供達の表情は再び変わった。
憎悪から、恐怖へ…。
祐一にはじりじりと後ずさっていく子供達を追いかける趣味はなかった。
子供達が去った後、祐一は網の中で大人しくなっていた兎をそっと大地に降ろした。
だが、元気に跳ねながら逃げていくと思った兎は、ひょこひょこと頼りない足取りで、身体を支えることすらおぼつかない。
網の中にいる間にどこか捻ってしまったのかもしれない。
このままでは子供達の手にかかるまでもなく、狐や梟の餌食だ。
「…ごめんな…。」
祐一は小さな声で謝ると、怪我をした箇所を労るように、兎を優しく抱き上げた。
その心が通じたのか、今度は兎は抵抗しなかった。
北の夕陽は足が速い。
見渡せばもう辺りには薄闇が忍び寄っていた。
遠くの方にぼんやりと街の灯りが見える。その方向に向かえば家があるはずだ。
「一緒に帰るか…。」
祐一は兎に一声かけてから家路についた。
「ただいま。」
「嘘つき。」
家に戻ってきた祐一を迎えたのは、唇を尖らせた従姉妹の一声だった。
「いきなりそれか…。」
「迷わないって言ってたのに、迷ったじゃない。」
置いてけぼりを食った名雪はすっかり拗ねていた。
もともと、そうそう元気に駆け回る方ではない名雪を無理矢理連れだしたのは祐一の方だ。
それが名雪を置いてけぼりにした上に道に迷ってこんなに遅くに帰ってきたのだから、この程度で済んでいるのはむしろ喜ぶべきことなのかも知れない。
だが、幼い祐一には従姉妹に弱味を握られるのは真っ平ゴメンだった。
「迷ったんじゃない。」
「迷った。」
「違うって。」
「違わないよ。」
「断じて迷ってなんてない。」
「じゃあ、何してたの?」
ぐ…と返答に困る。
どうも名雪は苦手だ。
ちょっと扱いを間違うとすぐに泣き出しそうに思える。
壊れやすい陶器の玩具のようだ。
「お、俺はこいつを助けに行っていたんだ。」
祐一は懐に抱えていた兎を引っ張り出して見せた。
走り疲れたのか、兎はぐっすりと眠っている。
「……晩ご飯?」
「こらこら。」
「まぁ。大きな晩ご飯連れて帰ってきたのね。」
「あんたら親子は鬼かぁ!?」
「冗談よ。」
秋子は微笑みながら答えた。
名雪の母・秋子は祐一の母・春香の妹で、二人とも近くの病院に勤めている。
名雪の父は彼女が幼い頃に交通事故で亡くなっていた。
一方、祐一の父、嘉一は今打ち切りになった番組の後始末で、週のほとんどを東京で過ごしている。
双方の父が家に居ないことと、母の仕事がとても忙しい関係で、春香と秋子は三交代の当番を上手にずらして、どちらか片方が祐一と名雪二人の面倒を見ることにしていた。
「嘉一さん、帰ってこないわね。」
「親父に”さん”付けしなくても良いよ、秋子さん。」
祐一は苦笑いしながらそう言った。
嘉一の感じる時間と祐一の感じる時間には相当な差がある。
嘉一にしてみれば、一週間に一度帰るか帰らないかの家であっても「ずっと家にいる」感覚なのだ。
祐一が生まれるまで家はおろか日本にさえ居着かなかった彼にしてみれば、それでも家族と一緒に過ごす時間を確保しているつもりなのだろうし、それに慣れている春香にとってもさほど長く不在にしているようには思わないのかも知れない。
だが、祐一の感じる”時間”は当然、違う。
それでも、”決してその時が訪れない”従姉妹に比べれば遥かに長い時間を共にしているわけだから、出来る限りそれを口にしないようにしているだけだ。
「タオルを持ってきますからね。」
秋子がそう言って離れていく。
どういうことだろう、と首を捻って気がついた。
祐一のシャツには、べったりと兎の血がこびりついている。
そのままソファーや畳に寝かせていたら大変だった。
「秋子さんは優しいなぁ。」
「祐一がお母さんに”さん”付けするのは変じゃないの?」
それを聞きつけた名雪が鋭く突っ込みを入れる。
祐一は再び言葉に詰まってしまった。
母の妹だから祐一から見れば確かに叔母なのだが、『叔母さん』と呼ぶには秋子の容姿は若過ぎた。
春香も見た目は若いのだが、さすがに実の母を「春香さん」とは呼べない。
「はいどうぞ。」
祐一は名雪の質問には答えず、兎を秋子が持ってきてくれたタオルに寝かせた。
アルコールをかけて消毒してから、足から流れる血を止めるために包帯を巻く。
「ちゆがいればなぁ…。」
祐一は残念そうに呟いた。
「ちゆって言う名前じゃないよ。沢渡さんだよ。」
相変わらず名雪の突っ込みは厳しい。
「いいんだよ、ちゆはちゆで。」
「違うよ。」
「いいんだよ。」
「違うって言ったら違う。」
「いいんだってば。」
「治癒の少女がちゆなら、私はなゆになっちゃうでしょ?」
「いいんだって!」
疲れていたのか、祐一はつい大声を出してしまった。
名雪はびくっと身体を震わせると、俯いて大人しくなった。
口喧嘩に勝ったわけだが、勝っても非常に後味が悪い。
もっとも、負けると気分が悪いので、どうあっても祐一には不利なのだが…。
「喧嘩はいけませんよ。」
秋子がいつもと変わらぬ穏やかな表情でたしなめる。
不思議なもので、秋子にそう言われると怒られているのに『許された』ような気がして気が楽になり、意固地になりかけた二人の心も軽く解れてしまう。
「うん。ごめんな、名雪。」
「ううん、いいんだよ。」
そうして仲直りして楽しく夕食、という運びになるのが常なのだが、今日は僅かばかり勝手が違った。
「それに、私も人助けをしたんだよ。」
そんな、誇らしげに胸を張る名雪の意外な言葉がことの発端だった。
「え?」
滅多に物事に動じない秋子が、珍しく祐一よりも先に反応した。
物心ついてからこの方、他人に関わることを避けるようにしてきた名雪が、自ら他人を助けるとは…。
「嘘だろ?」
「嘘じゃないよ、ほんとだよ。」
「ほんとかな?」
「ほんとだってば。」
「じゃあ、誰を助けたんだよ?」
二人のいつもの口喧嘩の結末は、珍しく名雪が口ごもって終焉を迎えた。
眉を八の字にして困っていた従姉妹は、長い沈黙の末にとうとう降参した。
「…判らない。名前聞かなかった…。」
でも、みんなに虐められていたから、やめて、って言ったの、と説明する名雪の声には、先刻の自信に満ちた声とは別人のように力がない。
「そう、偉いわね。」
秋子は微笑みながら愛娘の頭を撫でた。
固かった名雪の表情が少し和らぐ。
「うん、偉い。」
名雪は驚いたように声の主を見つめた。
従兄弟は腕組みをしながら感じ入ったように頷いていた。
「なかなか出来ないことだと思うぞ。名雪は勇気がある。」
名雪は目を大きく開いたまま従兄弟を見つめていた。
これまでになく大きく開かれた瞳は魅力的で、名雪の表情を一変させていた。
「…祐一、ごめんね。」
「んが?」
祐一は予想外の従姉妹の反応に口を大きく開いて応えた。
誉めて感謝されるならまだしも、謝罪されては勘定が合わない。いや、それ以上に、通貨が合わない。
「私、今ので祐一の気持ちが判ったから…。」
だから、ごめん、と繰り返す。
従兄弟を問い詰める癖が、どれだけ負担になっていたのかが判った、という。
「…ん、まぁ、何て言うか…。気にしてないから。」
祐一はごほんごほん、と咳払いしながら応えた。
正直言って勘弁して欲しい癖だったのだが、反省している従姉妹を”問い詰めたく”なかった。
「ありがと…。その、それで、その…。」
名雪はもじもじしながら恐る恐る口を開いた。
「明日、また一緒にその子の所に行かない?」
「「え?」」
今度は祐一も秋子も揃って驚いた。
ともすれば引きこもりがちだった名雪が、自分から祐一を外出に誘うとは…。
「また、虐められてると思うの。どれだけ酷いことを言われても止めてなかったから。」
治すことを。
「何だって?」
「だから、その子は、動物達を治してたの。あの、”治癒の少女”みたいに。」
その番組の悲喜劇的な結末は、多くの人から良く思われていない。
子供達にとって、それと同じことをする人間は”ニセモノ”であり、”虐めても良い”対象なのだ。
「何?ちゆがいるのか?」
「ちゆじゃないってば。沢渡さん…。」
「ちゆでいいんだって。」
「違うってば。」
「違わないよ。」
…。
秋子はそっと扉を閉め、夕食の支度を始めた。
いつものように喧嘩を始めた二人を、秋子は止めなかった。
これで良いと思う。
二人の顔には、これまでとは違う、やりとりを楽しむような微笑が浮かんでいたのだから。
<続き>