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| 第21話 失うもの達:Aパート | 目次 |
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1月 22日 金曜日
病院にいると気分まで病人になったように感じる。
そんな所だ、と思っていた。
だが、祐一が今感じている感情は、ほとんどその対極にある「戸惑い」だった。
「ここは立派なところだよなぁ……。」
ビデオ付きのテレビや空調、ふわふわのベッド、大きな窓と清潔で豪華なカーテン、落ち着いた色の壁、客が何人来ても良さそうな広い部屋と彼らのための長椅子と個人的に使える引き出しつきの机、椅子、洗面台。ホテルとの違いはいつでも看護婦を呼び出すことの出来る内線くらいだろうか?
それが全て祐一一人のための個室についているのだ。
「C棟はホスピスの棟ですから。」
祐一の独り言に、佐祐理は顔を上げて応えた。
ホスピス(Hospice)ケアとは進行性の病を抱える患者に対して効果的な処置がもはや出来ない場合に、症状緩和を優先させる考え方である。
従って、祐一がいるような快適な部屋が存在しても一向に不思議はないのだが、ホスピスケアが”治療”ではないことから、日本では一部の疾病に限られている。それがために病棟一つを準備するほどの需要はないし、そんな患者は常には集まらない……はずだが、現実にはこの棟の空きは非常に少ない。
この病棟では、この一室のようにちょっとしたオフィス仕事も可能なほど普段と変わらない生活を送れるため、ホスピスを”隠れ蓑”に入院する人間には、実に快適で充実した空間なのだ。
「あ、ただの独り言だから、佐祐理さんは舞みたいに集中していて良いんだよ。」
祐一は苦笑いしながら机を占領している二人を見た。
机に戻る佐祐理の目の前には、大学の入試問題が広げられている。そしてその向かいには問題に集中している舞がいる。
完全防音で図書室並の静寂を得られるこの部屋を祐一のためにあてがってくれたのは、何も祐一のためだけを考えたわけでは無さそうだ。
もっとも、祐一としてもそんな日常と変わらない風景を見ていた方が気分が紛れて都合がいい。
訪れる人みんなから見舞いの言葉を浴びていたら、必ず生きて戻る、という決意が揺らいでしまいそうだ。
そう考えると、春香が佐祐理の申し出を快諾したばかりか、居合わせた舞に『舞ちゃんもどうぞ』と誘ったのも頷ける。
さすがに「心理療法士」だけのことはある。
しかし、こうも真剣に受験勉強をされると、一緒にいる祐一の方まで肩が凝ってきて祐一の方が遠慮したくなる。
(そうだな……栞の部屋にでも行ってみるか。)
「佐祐理さん。舞。俺はちょっとその辺を散歩してくるから、二人は時間まで勉強しててくれ。」
祐一は肩をこきこきと鳴らしながらそう言った。
佐祐理は律儀に頷いたが、舞の方は聞こえているのかいないのかさえ判らない。
「万一のためにポケベルは持って行って下さいね。」
そう言われてすっかり忘れていた「ちょっと前の文明の利器」をベッド脇のサイドテーブルから取り上げた。
これがあれば病院内のどこにいても看護婦を呼べるし、逆に祐一を呼び出すことも出来る、らしい。
「使い方判らないから持っていても無駄なんだけどなぁ……。」
「一応決まりですから。」
苦笑して渋る祐一にも丁寧に答える。
これ以上長居すると本当に勉強の邪魔をしそうだ。
(ま、健康体の俺が看護婦を呼ぶこともないだろうし、呼び出され専用と思っておけばいいか。)
祐一はポケベルをポケットに忍ばせて、のんびりと部屋を出た。
かちかちに固まった雪が行く手を阻んでいる。
100円ショップで買ったシャベルではこれが限界だった。
(だいたい、本当にこの辺なのか?)
北川は抑えても抑えても湧いてくる疑問に抗しかね、指示を出した張本人を見た。
香里の指示は商店街の延長上にある未開発地域だった。
あゆが記憶に基づいて探していた地域とは大きな違いがある。
まして、香里は名雪の親友とはいえ、昔からここに住んでいたわけではないのだ。
この商店街がいつ頃からあって、その頃にどこまでが開発されていたかなど判らないはずだ。
それは北川も同様だからよく判る。
「…なぁ、美坂。やっぱり街に戻ろうか?」
「駄目よ。」
厳しい中に優しさのある、独特の声が反論した。
常ならばその声に異議を唱えることなど思いもつかないのだが、何故か今日は自然に口が動いた。
「じゃあ聞くけど、どうしてこっちなんだ?」
北川は疑問に思っていたことを口に出してみた。
言い出した相手が目の前にいるのに聞かない手はない。
ところが、香里は北川の期待に応えることは出来なかった。
「あたしだってはっきりこっちって言える訳じゃないんだけど…。」
困惑気味に眉を顰めて首を傾げる様子は、いつもの自信に溢れた香里の姿からは程遠い。
いや…。
北川は注意深く観察してその違いを見つけた。
彼の知っている香里からは、常にぴりぴりとした緊張感が漂ってきていた。
その緊張感のベールが剥ぎ取られた今、香里の素直な心の動きが表面に出ており、いつもよりも不安そうに見えるのだ。
冷静に観察してみれば、緊張感と自信とを混同していたに過ぎないことが判る。
だから、今後の方針については香里の言葉を聞いてから判断するべきだ。
北川は無言で香里の言葉の続きを待った。
「いい?月宮さんがこの商店街の何処を見てもそれらしいものを思い出せなかった以上、そっちの線からこれ以上の捜索は難しいわ。」
無くしたものが特定できない以上、警察も取り合ってくれない。
唯一の手懸かりと思えたあゆの記憶が”ここではない”と判断した以上はそれに従うべきだ。
「それに、ここは確かに昔は今よりのんびりしていたかもしれないけど、それでも直に地面だったって事はないだろうと思うのよ。あそこのタイルの張り方だってセンスが昔のセンスでしょう?」
香里は遠くに見える商店街を指差した。
歩道のタイルは茶色と白とで構成されているが、その色違いの組み合わせは一昔前に流行ったものだ。
香里の説を裏付けるように、あゆが『前からそうだよ』と合いの手を入れた。
「そうだとすると、いくらなんでも店と店の間とか店の前とか、そんなところに”埋める”ことは出来ないと思うのよ。ということは、あの商店街の延長線上のどちらかって事になるでしょう?でも、反対側は駅前で賑わってるし、地面も綺麗なタイル張りになってて待ち合わせとかに使われるくらいだし…。そのくらい入念に再開発されているから、必然的にこっちって事になるわけ。もし、街中で落としていたとしたら、月宮さんには悪いけど、もう諦めるしかないわ。でも、あたしにはそうは思えないのよね。」
以上の理由から、商店街と駅前は排除される。
あんな人混みで大がかりな捜索は出来ないし、第一、毎日のように清掃されていてとても無事に見つかるとは思えない。
要するに、香里の指示は”こっちにありそう”なのではなく、”こっち以外は諦めろ”という指示なのだ。
「なるほどなぁ…。良く判ったよ。」
北川は感服して頷いた。
自信がないように見えても推理の冴えはいつも通りの香里だ。
だが、その顔にいつもの凛々しさがない。
おろおろとしているのがよく判る。
「問題は、それでも”ここだ”っていう確信は得られないって所なのよ。この街道沿いなのか、月宮さんの記憶通り街中なのか、それとも全く違っているのか、結局の所判らないわ。もしかしたら、街の中の公園かもしれないでしょう?」
北川は『美坂らしくない』と言いかけて、口をつぐんだ。
さっきそれが本来の香里だと気がついたばかりではないか。
きっと彼女はもともとこういう女性なのだ。
たおやかで感じやすく、自分の言葉に自信を持てない、弱い女性なのだ。
今まではどういう理由か、自分を殊更に強く見せなければならなかった。
常に強く自分を保っていなければならない訳があった。
それが解消したに違いない。
そしてそれが”相沢の入院”と何か関係があることは疑いない事実だ。
だとすれば北川のやることは一つだった。
相沢祐一なら何と言うか、それを代わりに言えばいい。
「判った。まずはこの街道沿いを調べよう。次は街中の公園とか空き地だ。それが終わったら、次はまた何か考えよう。」
北川は香里が言った通りのことを”自信を持って”繰り返した。
ただそれだけのことで、香里の顔に芯が戻る。
「そうね…それがいいわ。」
自分が言った意見だというのに、香里の口調は北川の言葉に感心しているように聞こえる。
北川は”美坂が前のように輝くには誰かの支えが必要だな”と感じた。
そしてその役を自然にこなせるのは、今入院している男だろうな、とも理解していた。
「元気そうじゃないですか。」
「どこがだ?」
春香の言葉に倉田は仰天した。
二人がいるのは302号室。
例の手術に失敗した患者の部屋だ。
相変わらず昏々と眠り続ける彼女を、どう見れば元気に見えるというのだろう?
「精神(こころ)が、ですよ。私が診るのはそれに決まっているでしょう?」
春香は首を傾げてそう言った。
同僚だった倉田が何を言っているんだろう、と言いたげだが、倉田としても心外だ。
「彼女はずっとこんな感じだ。君は今日久しぶりに診たというのに、どうして判る?」
「医者ですから。」
半ば高圧的な倉田の問いにもさらりと答える。
なおも食い下がろうとした倉田の追求をかわすように、春香はベッドの傍に移動した。
「懐かしいわね、これ。」
春香はそう言いながら、ベッド脇のサイドテーブルに載せられている置物を手に取った。
陶器の天使が笑いかけてくる。
その周囲を囲むガラス球に光が当たると、虹のような光に変わって天使の輪を照らし、神秘的な雰囲気を醸し出してくれる。
幼い頃の祐一にせがまれて買ったものだ。
それがここにあることに、春香はそれほど疑問を持たなかった。
もともと『随分女の子向けのものをねだるな?』と思っていたのだが、案の定、買ってあげたその日に『あげた』と言ってきた。最初からそのつもりでねだっていたのだろう、とさして気にも止めなかった。名雪にでもプレゼントしたんだろうと思っていたが、相手がこの子だというのに少し驚かされた程度で、それほど予想の範囲を超えていなかった。
春香は昔を懐かしむようにその置物をしげしげと眺めた。
「……あら?割れてる?」
裏を返してみたとき、春香はガラスの球の表面に小さなひびを見つけた。
「ん?どこだ?……ああ、本当だ。安藤君が落としたかな?」
倉田は春香の指差す場所を見てその傷を確認した。
傷自体は置いているだけでは気がつかないほど小さなものだが、強度が大幅に落ちるのでいつ本格的に割れるか判らない。こういうものは割れ物として修理した方がいい。
「いえ、このままにしましょう。持ち主に聞いてみないと判りませんから。」
春香はそう言って置物をそっと元の場所に戻した。
疲れたようなため息が倉田から漏れる。
「聞くって言ったってねえ。」
「ふふふ。変わりませんねぇ……。忘れたら駄目ですよ。医学の基本。」
春香はにこにこと笑った。
倉田はその、秋子によく似た笑い顔に弱い。
「いや、君に言われたことを忘れてる訳じゃあないんだが…。」
あの日、秋子に誘われていった霊安室で見た風景。
待ち構えていた春香の前で、幼い舞が見せた奇跡。
そして春香が、秋子がそれぞれ放った言葉。
「必ず生き返る、と信じることが何より重要。」
「”必ず治ると信じること”は、医学の基本。」
目の前で繰り広げられた奇跡と、よく似た姉妹が繰り返す言葉。
今でもあれは夢か現か、と自問することがある。
だが、現実の倉田は、確かにあの日以来生まれ変わったのだ。
つまらない面子を捨て、実利を取りつつ理想を具現する。
体面でなく、結果で困難を乗り越える。
妬みを買うほどの徹底した理想郷の構築のために邁進できたその理由は、”出来ると信じてきた”からに相違ない。
「判りました?判ったら、戻りましょうか。秋子が首を長くして待っています。」
春香は倉田を促すようにしてベッドの傍を離れた。
「あ、ああ。そうだな。相沢さん…え〜と、祐一さんには、どうする?」
「あの子には手術の後で教えます。色々と刺激の強い話ですし。」
春香は真剣な目つきでそう呟いた。
倉田は、その目に押されて”失敗するかもしれないんだぞ”という言葉を飲み込んだ。
(そうだな…。信じなければ……。)
それが基本なのだから。
倉田は窓の外の銀世界を眩しそうに眺めた。
その光は天から来るものか黄泉から来るものか知らないが、いずれの迎えも拒まねばならぬ、と倉田は心に強く誓った。
<続き>