| Canon 〜外典〜 | 前話 |
| by Ophanim | 次話 |
| 第20話 海の向こう:Dパート | 目次 |
-
「何?じゃあ、おふくろと佐祐理さんのお父さんって同僚だったの?」
「私だけじゃなくて秋子もよ。」
春香は病室を辞して出ていった秋子の分まで笑顔を作った。
「そのくらい判るわぃ。お前ら二人が同僚だったんだから…。」
言ってみて口をつぐむ。
それ以上言うと胃の中のものが飛び出してきそうだった。
色々なことを思い出しつつあることは確かだ。
浮かんだイメージの中には白衣を着ている母の姿があったし、楽しそうに笑いながら近づいてくる秋子のイメージもあった。
が、それを言葉にしようとすると頭が猛烈に痛むのだ。
母から説明を受けた後ならすらすらと言葉に出来るのに…。
「同じ勤務医だったんだけど、倉田さんは仕事に厳しい人でね。とても忙しくしてらしたから、一度診て差し上げたかったんだけどね…。」
そう言うと春香は悪戯っぽい笑顔を佐祐理に向けた。
佐祐理はきょとんとした表情で春香の顔を見つめ返した。
その顔は全く事情を知らないと訴えている。
「それはどうも失礼しましたね。」
会話が滞っているのを見かねてか、扉の外から助け船が出航してきた。
「あら、噂をすれば何とやらですわね。」
「ご無沙汰でしたねぇ、雨宮さん。」
倉田の台詞に春香の頬がぷく〜っと膨れる。
「もう違うって言ってるのに、判ってて言ってるんだから…。ね、基本的に意地悪なのよ、この人。」
春香は同意を求めて佐祐理を見たが、実際に頷いたのは祐一の方だった。
もっとも、頷いた理由としては倉田に対してというよりもむしろ佐祐理に対してだ。
佐祐理は罪のない悪戯をすることが多い。
紳士的な倉田の娘にしてはどうも、と首を捻ることが多かったが、そういう親子なら頷ける。
「いやぁ、すまんすまん。今は相沢さんだろ?」
「そうですよ〜。ほらね、判ってるくせに…。そう言えば、久瀬さんとはまだ仲良しなの?」
「あぁ、あれとは腐れ縁だ。」
「北川さんとは?」
「ん…たまに連絡するくらいかな?」
二人の間には気安い雰囲気が漂っている。
倉田は祐一に見せたときとは別人のようにリラックスした表情をしている。
が、見ている祐一の方でも、それを気にする気にもなれない。
逆に、家族に見せる表情とはこんなものなのか、自分もこうなるのだろうか、などと考えさせられてしまう。
自分はこの人の年の頃、この人のような幸せな家庭や人間関係を築けているだろうか?
「……え〜と、その……婦長はもう帰ったのか?」
倉田はそわそわと腕時計を見やりながら聞いた。
「そうそう、それで思い出しましたわ。秋子が怒ってましたよ。勝手にあの子の手術したから危ないところだったって。」
春香がそう言うと、倉田は驚いたように目を見開いた。
「え?何を言うんだ。あの子の手術は私が決心したときにいつでも施術して良いって…。」
倉田の言葉が終わる前に、春香は顔中に笑顔の花を咲かせた。
「決心の意味が違うんですよ。決心するべきなのは…。」
「あ!いや、待て待て。何だか判ったからもう良い。」
倉田は慌てて両手を振って春香の言葉を遮った。
その口がそれ以上動くより先に、倉田がずいっと祐一の方に身体を寄せる。
「相沢さん、何か不自由なことはないですか?」
急に矛先が自分に向いてきて、祐一はベッドの上で背筋を伸ばした。
この、目の前にいる人間に自分の命を預けるのだ、と思うと奇妙な感じがする。
「私は…別に何もないですが…。」
「うふふ。逃げられましたね。」
春香はこれ以上ないほど嬉しそうな顔をした。
「いや、逃げたってわけでもないんだが…。」
「お父様、もし良ければ佐祐理からお願いがあるんですが…。」
父の助け、とばかりに、倉田の背後から佐祐理が声をかけた。
「ん?何だ?」
「祐一さん、お見舞いのお客様が多いですから、もっと別の落ち着いたお部屋に移して差し上げては如何でしょう?」
佐祐理はくるっと部屋を見回してそう言った。
名雪に佐祐理、春香に香里、真琴にぴろ。
今いるだけでも5人と一匹もいる。
さっきまでは秋子もいたし、舞だって来たいはずだ。
ぴろから連絡を受けた美汐も来るだろうし、いくら病院嫌いのあゆと言っても、水瀬家に一人も人が居なくなれば来るかも知れない。
付き添いの人数は確かに異様なほど多い。
しかも、祐一自身には何の怪我も病気もないのだ。
「ふむ。なるほど。では、C棟の上に移すか?」
「え?それって、例のホスピスの部屋?」
祐一が意志を示す前に春香が反応する。
先刻までの話は綺麗さっぱり忘れているようだ。
この手の話題に即座に飛びつくのは、さすがに”元”同業者だけのことはある。
「一応現役なんだけどな…。」
祐一の心を読んだかのように、ぼそぼそと言い訳をする春香は、しかし、真実を指摘していた。
「そうだ。話の種にもなるんじゃないか?」
倉田は内心で話を逸らせたことを娘に感謝しながら、白衣の襟を正した。
が、その耳元で春香が、
「あの患者さんとは違う階なのかしら?」
と尋ねたときに感じた、何とも言えない嫌な胸騒ぎが拭えなくて、折角正した襟を何度も握りしめることになった。
「おや、しばらくじゃな。」
白々しい挨拶に思わず苛立ってしまいそうになるが、そこをぐっと堪える。
ここでは第一級の化かし合いが展開される。
相手のペースに嵌ってはいけない。
「しばらくでした。」
秋子は平然と、出来るだけにこやかに答えた。
自分の方が優位にあることを無言で示さなければならない。
「お主はもう準備万端ではなかったのか?雨宮よ?」
「万端ですわ。ただ、最後のご忠告にと思いまして。」
老人が自分を昔の名字で呼んだことを軽く受け流して目を閉じる。
これもどうにか自分の体勢を崩そうとする相手の仕掛けかも知れない。
「ふむ?何のことかの?」
老人の声は面白がるような声に変わった。
嫌な予感がする。
秋子は表情を保つことが出来なかった。
思わず眉を顰めてしまった。
(あ、やってしまいました…。)
一気に押し切られていくのが感じられる。
ようやく保たれていた均衡があっと言う間に揺らぎ、老人の姿は見上げるような高さにあるように感じられる。
「おやおや。もの足りぬなぁ。お主はやはり”語りかける者”としては荷が重いかのぉ?」
老人は不満そうに鼻を鳴らした。
努力の甲斐あって、一般人の中にあっては秋子も物事に動じない方なのだが、この場合は相手と状況が悪い。
とはいえ、平静を保つことが力を発揮する条件となっているのだから、言い訳の出来ないところだ。
「やはり勝手に奪った力では上手く扱えぬか?」
秋子が黙っていると老人は一層調子に乗って責め立ててきた。
だが、その責めはもう克服している。
「そうですね。そうかもしれません。」
秋子は感情を押し殺すように目を閉じた。
老人は一気に若返ったかのように豪快に笑った。
「はっはっは。ならばとっととお主を引退させて次の者を任命するとしようかの。」
「そのためには、動かす者の力を借りなければなりませんね。今のあなたでは無理ですから。」
ぴた、と老人の動きが止まった。
驚いたように目を見開いて、秋子の顔を見つめている。
秋子は閉じていた目をゆっくりと開いて、静かな瞳で老人を見つめた。
「そう来おったか……。」
老人の呟きは感嘆と驚嘆に満ちていた。
この女、いつの間に乗り越えていたのだ?
「どうでしょう?諦めてはもらえないでしょうか?」
機嫌を直して欲しいという申し出は断られた。
言葉を変えて何度も試みているが、この強情な老人はどうしても首を縦に振らない。
もう少し時間が経っていれば全てが消えていた。
秋子はそれでも良いと思っていたが、姉の考えは違ったのかもしれない。
そう考えれば、祐一を受け入れるとき『まだ早いと思う』と言った秋子の言葉を、姉は意図的に聞き流していたのかもしれない。
(確かに、姉さんならそう思うかもしれないけど…。)
残すべきだと。
続けるべきだと。
だが、秋子にはそれは難しかった。
春香がすんなりやれることでも、秋子は躊躇してしまう。
周囲から見れば危なっかしい姉を陰で支える、良く出来た妹に見えるのだろう。
だが、ことが”運命を動かす力”に及ぶならその認識は大きく異なる。
秋子は”動かす者”としては非常に弱い力しか持たなかった。
大きなリスクを冒すことを自然と避けてしまう。
その傾向は最愛の夫を失ったとき、より顕著になった。
そしてその”平静を求める心”は”語りかける者”として任命を受けるに足りるものだった。
もっとも、ようやく足りる、といった程度でしかなかったが…。
だが、秋子はそれからじっと研鑽を積んだ。
そして今、相手が一番痛いところを突いてきたその時でも平静を保てるように、少なくとも、表面上は平静に見えるように繕うことが出来るようにまでなった。
それは、彼女を仕方無しに任命した本人の、
「お主もなかなかやるようになったの…。」
という言葉で裏付けされた。
もともと”語りかける者”の力は伝承や継承の他に”任命”という手段でも取得することが出来る。
秋子が力を引き継ぐ、と心に決めたとき、この老人はその資格もないのに『語りかけてきた』物珍しさから軽い気持ちで『了承』を出したのだ。だが、それが今こうして出し抜かれてみると、意外に慧眼だったことになる。
「ありがとうございます。では、処断は諦めていただけるのですね?」
秋子は頬に手を当てて笑顔を作った。
心から喜んでいるわけではなく、相手に対して余裕を見せるためだ。
「…残念ながら、無理じゃ。」
老人は首を振りながらそっと手を開いて見せた。
そこに現れたものを見て、秋子は思わず息を飲んでしまった。
「…やはり、まだまだじゃの……もっとも、これを見せられては酷か?」
老人の声には今度は同情の度合いが濃く混じっていた。
が、それを受け取る耳が秋子にはなかった。
相手が持っていた切り札は秋子の想像を超えていた。
「い、いつの間にそんなものを……?」
老人の手の上でとくんとくんと規則正しい鼓動を打っている、赤黒い塊。
それは妖狐の黒琥珀に相当する、”動かす者”を強制的に止めることの出来る宝珠。
そしてその対象が誰であるかは疑いなかった。
「儂には、いざというときにはこれがある。」
老人は厳かに勝利を宣言した。
彼の思い通りに”動かす者”が力を使わなかった場合、彼は即刻その力を奪い取ることが出来る。
”動かす者”の力が及ばなかった場合、彼は勝利する。
”動かす者”が動かなかった場合のみ、この問題を痛み分けに終わらせることが出来る。
だが、今祐一はまさに運命を動かそうとしているわけだから、動かないわけにはいかない。
「水瀬よ。お主が考えていることを判らぬとでも思ったのか?」
老人は初めて秋子を現在の名字で呼んだ。
それは彼女の記憶にある、彼が暖かかった頃の声に似ていた。
どこまでも慈しむような優しさ。
「……お主が儂の自滅を待っていた頃、儂は彼の者が戻ってきたなら些細な動きすら逃さぬよう、じっくり力を矯めておったのじゃ。このひとときに賭けていたのじゃよ。動かぬ事で相手の先を取るのじゃ。」
諭すように話す老人の声を聞きながら、秋子は必死で心を抑え込んだ。
さながら嵐の海の大波ように、次から次へと大きな思考が襲ってくる。
負けてはならない。
この嵐を乗り越えて、思考の海の向こう岸に行くのだ。
「お主はようやった。じゃが、戦いの年季というものが足りぬ…。」
「紡ぐ者よ。」
ようやく顔を上げた秋子の顔は、普段のそれと変わらなかった。
紡ぐ者の顔が強張る。
「紡ぐ者よ。私は、水瀬でも雨宮でも、ありません。」
秋子の言葉に、紡ぐ者と呼ばれた老人の顔が綻んだ。
厳しかった顔に笑顔が広がる。
「はっはっは。何じゃ?どちらでもなく、”秋子”とでも呼んで欲しかったのか?屁理屈を抜かしおって。負け惜しみも大概にせい。」
老人の笑い声を、秋子はそよ風のような微笑みで受け流した。
その表情はいつものにこやかさを取り戻している。
乗り越えてしまうと、先ほどまでの嵐が嘘のように凪いでいた。
それが過ぎるのを待つのではなく、立ち向かうことも平静を守ることに繋がるのだ、と初めて知った。
「いいえ。私は…。」
自分の名前を言いかけて、秋子は少し迷った。
相手につけ込まれる隙は少ない方がいい。
ここは折角のご忠告通り、相手の先を取れるまで待つのがよいだろう。
「お主は何じゃ?」
おあつらえ向きに相手が焦れてくれた。
この調子で待ってみるのも良いだろう。
「私は、語りかける者です。」
秋子は微笑みながら答えた。
その表情はその能力にふさわしく、柔らかに平静を保っていた。
<続き>