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| 第20話 海の向こう:Cパート | 目次 |
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唐突に病室の扉がノックされた。
和んでいた空気がぴんと張りつめる。
病院独特の一瞬だ。
が、扉の向こうから顔を出したのは、満面の笑顔を湛えた佐祐理だった。
「お邪魔しま〜す。」
張っていた空気が急激にしぼむ。
そんな雰囲気にも動じないのが佐祐理の良いところだ。
佐祐理は祐一に一旦笑顔を見せた後、春香と秋子を見比べるようにして立ち止まり、悩んだ末に二人の間に向かって頭を下げた。
「こんにちわ。倉田佐祐理と申します。以後、末永くよろしくお願いいたします。」
その”末永く”という単語と美汐の予言を関連づけて考えたとき、祐一の顔は耳まで真っ赤になった。
幸いなことに、二人の”母親”はその言葉が持つ意味に気付かないでくれたようだ。
いや、気がつかないどころか、春香は佐祐理に
「あら、こんにちわ。もう気分は良い?」
などと挨拶をしたのだ。
対する佐祐理の答えもまた、
「あ〜、はい、その節はどうもありがとうございました。」
と、まるで予想外の反応をしている。
「なんだなんだ?知り合いなのか?」
祐一は少し疎外感を感じて話に割り込んだ。
てっきり初対面だと思いこんでいた者達が、自分の知らないところで話が通じていたというのは気分が悪い。
「ん〜?知り合いって言うより、私の患者さんね。」
春香は首を傾げながらそう言った。
その答えにも驚きだ。
「なんでおふくろがここに患者持ってるんだよ?」
祐一は突っ込みを入れるべく身体を起こし、その拍子に自分の母親の職業を思い出した。
「そうか。昔どっかで働いてたんだっけ?」
「うん。そうよ。」
春香は佐祐理の頭を撫でるようにした。
反射的にその目を閉じる佐祐理に、『あ、これは治療じゃないわよ』と笑いかける。
春香は心理療法士だった。
いや、彼女だけではなく、秋子もまたそれを目指していた。
心理療法士は簡単な相談から抗鬱、PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)の治療に至るまでを幅広くカバーする仕事であり、事故などで心に深い痛手を負っている患者やその家族、場合によっては勤務医の心のケアを引き受けるために、姉の春香は専門の女医、妹の秋子はその看護婦として近所の病院に勤務していた。
それは祐一がここに住んでいた頃も同じだったはずだ。
だから、それだからこそ、名雪と祐一はまるで兄妹のように一緒に過ごしていたのだ。
つまりそれは、母の職業は、知っていて当然の情報だった。
何故そんなことを思い出せずにいたのか。
それを知っていれば秋子が何をしているか、などという疑問は出なかったはずなのに…。
祐一は歓談する3人に背を向けて、窓際で居眠りをしている真琴とぴろに目を向けた。
根が正直な妖狐達は祐一が『帰れ』と言っても帰らずに徹夜で付き添ってくれているのだ。
だが、この間、真琴が正気を取り戻したときにも、吐き気を催すような気分の悪さが襲ってきて、結局はあれほど聞きたかった”何を伝えに来たのか”を聞くことが出来なかった。
瞬間、くるっと世界が回転する心地がして慌てて身体を転がして天井を向いた。
そこに見慣れぬ天板を見つけて逆に安心する。
ここは病院だ。
何かあったとしても何の心配も要らない。
自分がそこに思い至ると何故か気分が悪くなる、過去の記憶の掘り出しには好都合なのではないだろうか?
「祐一さん。気分は如何ですか?」
記憶の海の向こう側へ渡ろうとしていた祐一を阻む、そんな明るい声。
祐一は記憶復元作業をひとまず中断し、笑顔の可愛い女性に笑顔で返事をすることにした。
「何かさぁ、病気でもないのに病室にいるのって変な感じだよ。」
「あはは〜、ほんと、そうですね〜!」
佐祐理は普通の病室ならば両隣3部屋分は突き抜けたのではないかと思えるほど大きな声で笑った。
祐一は思わず顔をしかめて唇に人差し指を当てた。
「駄目だってば、佐祐理さん。病院では大声出さないの。」
「ふぇ……ごめんなさい…。また忘れてしまいました…。」
佐祐理は素直に頭を下げた。
この部屋ではその心配はないと思うのだが、それでもエチケットというものがある。
「素直な良い子じゃないの。」
頭上から降り注ぐ声が如何に賛辞であろうとも、それが好意を感じている者の親のものならば、誰しも緊張するものである。
佐祐理は一層深く頭を垂れた。
「そうですね。私も安心です。」
秋子が春香に応えている。
何が安心なのか、言われている側からでは窺い知ることすら憚られる。
「それにしても世間は狭いわね。私の患者さんが…。」
「お姉さま、それはちょっと…。」
春香が何か言おうとしたのを、ヒアリング満点の秋子が止める。
祐一にしてみれば春香が悪魔に、秋子が天使に見えた瞬間だ。
放って置いたら『私の患者さんが私の娘に』などと言い出しかねない雰囲気だ。
沈黙が部屋を満たしかけたその時、扉が開いて名雪が滑り込んできた。
ノックが後から追いかけてくる。
この寒い中額に汗を浮かべているのは、ここまで走ってきたからか、それとも部活をしてきたからか。
いずれにせよ、相当走り込んできたことだけは間違いない。
「祐一は…あ…う〜…。」
名雪は祐一の隣を自分にとって一番強い命令を出せる人が占拠していることに困惑した。
入り口で逡巡している名雪を佐祐理が優しく手招くと、手招きされた名雪はかちかちに固まった足を佐祐理の隣に運び、まるで軍隊の兵士のようにしゃきっとした顔を祐一に向けた。
「ぷっ。何だよ、その顔。名雪じゃないみたいだよ…。」
「う〜…そんなこと言われても…。」
祐一の声で名雪の目尻が疲れたように下がる。
見慣れた表情が戻ってきて、”名雪のようだったもの”も名雪に戻った。
「水瀬さん、もっとリラックスして良いのよ?」
「はいっ!リラックスさせていただきますっ!」
たとえ佐祐理にその気がなくても名雪にとっては命令になる。
祐一は凛々しい表情で”リラックス”している従姉妹を見て少なからず同情した。
不意に佐祐理の肩に手が置かれた。
「佐祐理。その癖、直しましょうね。」
やんわりとした忠告。
それでいてしっかりとした強制力を持っている。
そんな不思議な力を持った言葉が秋子から出ることについては、祐一もさもありなんと思える。
だが、何故彼女が”佐祐理”と呼びかけたのか、その理由については皆目見当がつかなかった。
何度も逡巡した後、勇気と覚悟を振り絞ってその扉を叩いた。
部屋の中の緊張感が扉越しに身体を貫いたような気がする。
それだけで折角振り絞ったなけなしの勇気が完全に萎えてしまったことを悟った。
だが、もう後戻りできない。
「どちら様?」
「どうぞ。」
中から複数の声がかけられて、一層逃げ場を無くしていく。
死刑台を登るような心地で扉に手をかけた。
「お邪魔します……。」
言いようのない罪悪感に押し潰されて、上を向くことすら出来ずに、よろめく足を前に出した。
殺されるかも知れない…。
それでも仕方がない。
恨まれても当然だ。
自分は、自分達は、それだけのことをしたのだから……。
「おう、香里、どうした?」
死地に向かう本人から、とんでもなく明るいいつも通りの声がかけられた。
その声に安心して顔を上げた香里は、思わず凍り付いた。
覚悟していた以上に厳しい、見たこともないような親友の視線に射抜かれてしまったからだ。
いや、もはや親友とは呼んでもらえないだろう。
自分は自分のエゴのために親友の一番大事な人を危険に陥れている……。
『何しに来たの?』
そんな声をかけられたら、その方がましだ。
今、かつての親友は一言も発してくれない。
普段は決して見せない、真ん丸に見開かれた瞳で、香里の心を射抜いたまま黙っている。
その沈黙の重みが香里の心臓を押し潰すと知っているかのようだ。
でも、と香里は唇を噛み締めた。
それでも、自分はやり遂げなければならない。
死ぬ前に、どうしてもこの一言を言っておかなければ…。
「こ…この度は……何と申し上げて良いか……。」
「え〜と、どちら様?」
再び香里の背中に何とも言えない嫌な汗が流れた。
歓迎されざる者。
そう遠回しに伝える、拒否の挨拶……。
香里の目に涙が浮かんだ。
既に勇気は全て絞り出されている。
もうこれ以上は耐えられない。
香里の足が崩れ落ちようとした、その時。
「ああ、ごめんなさい。姉さんは初対面でしたね。」
秋子の言葉が香里を救った。
その声の明るさが、香里を闇から掬い上げた。
「こちら、美坂香里さん。祐一さんがドナーになる栞さんのお姉さんです。」
「あ〜、そうなの。言われてみればどことなく栞さんに似てるかしら?」
春香はにこにこと香里に笑いかけた。
香里はよろめきかけた足を踏ん張って堪え、背筋を伸ばした。
「は、はいっ!」
「香里〜、挨拶忘れるなんて、らしくないなぁ。」
祐一が笑いながらそう言ってからかったが、今の香里にはそれを受け流す余裕はない。
引きかけた涙が再び押し寄せてくる。
「す、すみません……。」
浮かび上がった心が再び奈落の底まで落ちていく。
激しい乱高下を繰り返す香里の心に平静をもたらしたのは祐一だった。
「何だよ、改まっちゃって…。……あ、もしかして、こいつの顔か?」
祐一がむにゅ、と音を立てるようにして名雪の頬を引っ張った瞬間、香里の見慣れた親友の顔が現れた。
確かに少し怒っているようにも思えるが、香里を睨んでいたわけでは無さそうだ。
訳が判らずに立ち尽くしている香里に、名雪の頬を放した祐一が説明する。
「さっき、佐祐理さんが名雪に”病院なんだから大声出したら駄目です”って言ったんだよ。それからずっとこんな感じ。」
香里はようやく安心した。
背筋を張ったまま、授業中でも見せないほど目を吊り上げている親友の姿は、どうやら香里が来る以前からずっとそのままのようだ。
嫌われていないと思ったら急に気が抜けて、香里はとうとう座り込んでしまった。
お見舞いの印に持ってきた花や果物が床に散らばってしまう。果物の一つは祐一の隣でうつらうつらしていた真琴の足に当たって、真琴の目を覚まさせた。
「おいおい。食べ物は大事にしろよな。」
祐一の小言を聞いた真琴は、それが自分に言われたものだと思って大急ぎで転がった果物を追いかけているが、名雪は立ったまま、香里は腰を抜かしたままだ。
ちりん、と音がして真琴のポケットから何かが落ちた。
「あら。まこちゃん、落としたわよ。」
秋子がそのロケットを手に取った。
何の気無しに裏を見た秋子から、寝ぼけているとは思えないほどの速さでひったくる。
「…びっくりしたわ…。」
「ご、ごめんなさいっ!」
真琴が顔を真っ赤にしてごそごそとロケットをしまい直している。
その向こうでは祐一が床に座った香里に差し向かって『こういうのは快気祝いの時に持ってこい』と苦言を呈している。
「びっくりしたわ。」
秋子はもう一度口の中で繰り返した。
祐一は真琴が迷子にならないよう、真琴の写真を貼ったり住所を書いておくために渡したはずだった。
だが、真琴のロケットの裏に貼ってあった写真は、真琴本人の写真ではなかった。
ちらっとしか見ていないので何とも言えないが、祐一のものである可能性が非常に高いと思う。ということは、いつの間にか写真を撮ったり現像に出したり出来るようになっていたと言うことだ。ほんの数日前まで昼間に起きてくることも億劫がっていた少女が、甲斐甲斐しく世話を焼いている。料理を手掴みで食べていた少女が、いっぱしのテーブルマナーを身につけている。感情を抑えることが出来ずにいた少女が、抑制の利いた瞳で恋をしている。
どの変化も非常に急激だった。
少女から淑女へ一足飛びに飛び上がっていた。
これで変化に気付かなければ保護者失格だろう。
(そして、語りかける者としても、ね。)
もっとも、こんな状況では仕方ないだろうが…。
とは言いながら、何かが起きているのは間違いない。
どうしても一度確認に行かなければなるまい。
姉は強い。
自分もそうなれたらと思う。
そして自分の娘もそうあって欲しいと思う。
甥の強さを補えるほど、強い子であって欲しいと、願う。
それはいけないことなのだろうか?
秋子の思考は扉の開く音で遮られた。
看護婦が祐一を連れて去っていく。今日の面会はこれまでだ。
また明日、ここに来よう。
その前に行くところがある。
行かねばならないところがある。
秋子は大きく深呼吸をして部屋を後にした。
<続き>