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| 第20話 海の向こう:Aパート | 目次 |
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1月 4日 月曜日
「春香(はるか)。大事な話がある。」
「何でしょう?」
仕事始めから戻ってきた嘉一(よしかず)は愛妻に話しかけた。
彼がこう切り出すとき、本当に大事だったことはない。
春香は動揺することなく微笑みながら答えた。
「実はまた転勤になった。」
おや?
春香は首を傾げた。
これは結構大事な話ではないだろうか?
嘉一がフリーのジャーナリストとして活躍していた頃は転勤どころか家に居着くことすら稀だった。
仕事場は現場だったり貸し事務所だったり、居間だったり風呂場だったりした。
祐一が産まれてから、育児に必要な期間と学業に専念しなければならない期間に限って宮勤めする、と彼の方から宣言してきた。彼が『嘱託でいいから雇え』と言うと、どこの社もこぞって彼を迎えたがった。
その中で彼が選んだのが自宅から一番近い、地方の小さなTV局だった。そこで計画されていた番組の根源が、二人の出会いに近かったという郷愁も一つの理由になっていたかもしれない。
ともかくもそこで彼はしばらくの間を過ごすことになったのだが、出来た番組は彼の再三の忠告にも関わらず酷い出来だったため責任者は更迭され彼自身も経過を説明したりその後始末をしたりするために本社に異動になっていたのだ。
身分は一応”嘱託”なのでこの機会に離れることも出来たのだろうが、彼は最後まで責任を持って仕事を済ませ、この冬に一段落させた、という。
そんなわけで、転勤の話は家庭では一切無かったのだが、もともと本社での嘉一の仕事自体が転勤するための仕事のようなものだったということだ。
「そうなんですか。」
いずれにせよ、春香にとっては青天の霹靂だ。
俄には気持ちを切り替え難かった。
更に嘉一は衝撃的な言葉を発した。
「しかも、今度の転勤は海外だぞ。」
「まぁ、どうしましょう。」
にこにことしながらとんでもない事を言う。
春香は目を丸くして驚いていた。
「良いか?長いからしっかり書き留めておかないと忘れちゃうかもしれないぞ?」
嘉一の言葉はもっともだ。
春香は大急ぎで妹から贈られた手帳を取り出した。
毎年新しい物が送られてくるが、外側をそのままに中身だけを入れ替えている。今年の分はまだまだ真新しい。どれだけ長くなっても書き込む余白はたくさんあった。
「行くぞ?アメリカの隣のイギリスの隣のフランスの隣の………。」
余白はあっと言う間に無くなっていった。
春香は一心不乱にメモ帳に書き込みを続けている。
夫が妻の書き込む姿を見てにこにこしているのには気がつかなかった。
「………中国の隣の韓国の隣だ。」
「随分遠いところなんですね。」
嘉一の言葉が終わったとき、春香は余白が足りたことにほっとしていた。
夫が余白がいっぱいになったところで止めようと思っていたとは夢にも思っていないようだ。
「あぁ、なんと言っても海外だからな。」
「海外ですからね。」
夫の言葉に妻は笑顔で応えた。
気持ちの切り替えは完了していた。
海外。
行ったことがないが、きっと良いところに違いない。
何と言っても、夫が選んだ場所だから。
夫と一緒にいられる場所だから。
「言葉も通じないかもしれないぞ?」
「そうなんですか?」
嘉一の顔は一層にこにこしてきた。
春香はそんな夫の顔を見るのが好きだった。
「なんと言っても、海外だからな。」
「海外ですからね。」
春香はそう言って微笑んだ。
嘉一はそんな妻の顔を見るのが好きだった。
「いたましい、とか言うかもしれないぞ。意味わかんないだろ〜?」
嘉一はそう言って胸を張った。
自分には判る、といいたいのだろうか?
「それは判ります。」
春香は微笑んだ。
その言葉にはどこか懐かしい響きがある。
故郷の言葉によく似ている。
たしか、勿体ないという意味だった…。
「おお、春香は海外語も話せるんだな。」
「小さい頃に使っていたような気がします。」
「それじゃ心配ないな。」
「任せて下さい。」
春香は胸を張った。
いざとなれば通訳も出来るだろう。
本職に戻ることも考えたが、海外では難しい。
「じゃあ、しっかり頼んだぞ。」
「祐一はどうしますか?」
「は?」
嘉一は少し首を捻りながらそう言った。
ん?
”合わせてくれていたんじゃあないのか?”
「海外に出かけるなら、転校させないと……。」
妻の顔は冗談を言っている顔ではなかった。
真剣に悩んでいる。
愛する息子と離れて暮らすことになるかもしれないと悩んでいる。
「えーと…、それはその〜、転校は確かに必要なんだが……。」
「でしたら、聞いてきます。」
「……おーい……。」
大急ぎで離れていく春香を見送りながら嘉一はうろたえていた。
おい、妻よ。
行き先は日本だと判っているよな?
本州から北海道に行く。
そう言う意味の”海外”だと、判ってい……ないんだろうなぁ……。
「祐ちゃ〜ん。」
「その呼び方やめろって言ったろうが。」
不機嫌そうな声が飛びかかってきた。
祐一はベッドに寝ころんで漫画を見ている最中だったらしい。
相変わらず雑多なものが色々と投げ出してある、足の踏み場もない男の子らしい部屋。
息子は冬休みを満喫しているとは言い難い、不機嫌そのものの日々を過ごしていた。
それは今に限らない。
あんなことがあって逃げるようにあの町を出て以来、息子はずっと不機嫌だ。
失われた力。
失われた絆。
失われた過去。
失われた未来。
失われた笑顔。
それを少しでも埋めようと、春香は常に友達のように息子に接した。
「祐一。母さん達海外に転勤になったんだけど、海外と国内どっちがいい?」
「一人暮らしがいい。」
「んなことさせられるかぃ〜っ!!」
ぺしっ!
嘉一の見事な突っ込みが入って、祐一は”こてん”とベッドに転がった。
二人の掛け合いの妙を見ているととても楽しい。
春香はそう思っていた。
だが、真面目に考えても祐一の申し出は受け入れられないものだった。
つまり、ここに残りたい。
そう言う答えだ。
それはここが気に入っているからではなく、動くのが面倒だからだ。
生きる気力を失っているからだ。
ここでは命の息吹を感じることは出来ない。
春香は悲しそうな目で息子を見つめた。
その目で見られると祐一は心を切り裂かれるように苦しい。
その目が…苦しい。
祐一は折れた。
「判ったよ、それじゃ国内でいいよ。今から外国語勉強するのは嫌だしな。」
祐一は投げやりな態度でそう言った。
最近こういう返事をすることが増えてきた。
ここでは何をしていいのか判らないのかもしれない。
人の裏表が多すぎて擦り切れているのかもしれない。
祐一の心の内側が擦り切れてしまうのは親として辛い。
祐一の心の外側が擦り切れてしまうのは人として怖い。
春香は出来るだけ優しい声を出した。
「英語は勉強しているじゃない。」
「この前の成績は3だったよ。」
息子の答えは素っ気なかった。
頭の悪い子ではないが、やる気が出ない。
出ない理由が判っている者としては理解できる結果だった。
「普通じゃない。」
「10段階評価だよっ!」
春香の言葉に祐一は少しずれた答えを返した。
母親が5段階評価と勘違いしていると思ったのだ。
「でも、まだ下に1も2もあるじゃない。」
「1と2は赤点だよっ!!」
赤点とは落第点のことだ。
これを取ると補修を取らなければならなくなり、補修でも合格できないと留年となる。
要するに、留年の心配のないぎりぎりのラインということだ。
「でもきっと大丈夫よ。」
「どこがだよ…。」
祐一は呆れたように母親を見つめた。
会話はおろか簡単な挨拶も出来ない状態で海外に出かけることに不安はないのだろうか?
いつも”どうにかなる”と思っている母親が不思議でならない。
「祐一も一緒じゃないと寂しいわ。」
「こっちはもう疲れたよ……。」
そう言う祐一の表情は本当に疲れ切っていた。
嘉一は息子のそんな顔を、腕組みをしながら見ていた。
反抗期と簡単に括ってしまえるなら良い。
いくらでも反抗してくれて良い。
だが、これは違う。
無気力になっている。
一度ショック療法に賭けてみるのも面白いかもしれない。
「……この際だからどこかに預けて居候させるのもいいかもしれないな。」
”どこか”と言いながらも、夫婦の間ではそれが何処なのかは既に決まっていた。
いや、親子の間でも漠然と判っていたかもしれない。
「社会性が身につくかもしれないわね。」
「……さっきと言ってることが違うじゃないか。」
祐一は母親を見上げた。
その目はこれから捨てられる子犬のようでもあり、動物医院に運ばれてきた患畜のようでもあった。
「??」
春香は首を傾げた。その母親に向かって祐一が口を開く。
「さっきは一緒じゃないと寂しいって言ってたじゃないか。」
祐一は非難がましくそう言った。
答える母の顔はいつものように笑顔だ。
「寂しいけど父さんの言うことなら間違いないわ。」
「……もういいよ。」
「???」
春香は再び首を傾げた。祐一の心が判らない。
だが、嘉一には息子の焦りや迷いが見て取れた。
自分自身の価値を見出すことが出来ないでいる。自分の進む道が判らないでいる。
「春香、先方と話をつけてもらえるか?俺は北川に連絡して俺達の住む場所を確保してもらう。」
嘉一はそう言って階下に消えた。
北川は嘉一の言うことなら何でも聞くだろう。
それはもう、うるさいくらいに寄ってくるはずだ。
「今の私があるのは相沢さんのおかげですから。」
今や北の巨人と噂される敏腕ディレクターがそう公言して憚らない。
これからそっちに行くと言っただけでここまで迎えに来てしまいそうだ。
それは困るのだ。
嘉一は息子との別居を密かに喜んでいた。
祐一には自分の仕事を伝えていない。
自分の親はしょっちゅう会社を休む不真面目なサラリーマンだと思っているだろう。
一般にも相沢嘉一に子供がいることは余り知られていない。
嘉一の仕事の性質上、幼い子供を抱えていることを知られるのは得策ではなかったし、息子が進む道に何の先入観も持たせたくないと言う身勝手な欲求もあった。
結果として彼が自分と同じ道を選ぶならそれ以上の喜びは無いが、その際にも子供のように素直な心のままでこの世界に飛び込んできて欲しかった。
今のままではそのどちらもが失われそうだ。
息子と別居して田舎に帰る、というアイディアは、そのどちらをも再び掴み取れる非常に魅力的なものだった。
「祐ちゃん、じゃあ、先方に話は伝えるから、よろしく言っておいてね。」
そんな声を残し、息子の”だからそれをやめろって”という声に送られて春香が降りてくる。
「そうそう。春香。祐一と別居するわけだから、元の仕事に戻っても良いんだぞ。」
嘉一は息子との別れの寂しさを必死に堪えている妻に声をかけた。
離れることで何か良いこともあることを教えてやりたかった。
「…あ、そうですね。」
春香の顔は目に見えて明るくなった。
もともと仕事が好きなのだ。
「昔の友達にも会えるかもしれないだろう?」
「えぇ。えぇ。」
にこにことした笑顔が身体全体に広がっていく。
あの事件以来、春香は旧友達に会っていない。
会うことは危険なのだ。
剥がれることは危険なのだ。
「あ、でも、私、旧姓で呼ばれるの嫌いです…。」
春香は急に唇を尖らせた。
昔の友達はきっと彼女を旧姓で呼ぶ。
結婚したのだから相沢が良い、といくら言っても聞いてくれない、と愚痴をこぼしていた。
「まぁ、いいじゃないか。それだと春香も危険だし。」
幼い息子同様、この少し天然ボケの入った嫁もまた彼にとっては一種の枷だった。
あそこに帰ればそれもなくなる。
「でも、私は相沢春香が良いんです。」
「でも、連中にとっては雨宮春香が良いんだよ。」
同じような言い回しで返してやるといつも春香は不機嫌そうに唇を尖らせる。
嘉一にはそれもまた可愛い仕草の一つだ。
「どっちでも良いんだよ、俺にとっては。お前が俺の春香であることには変わりないんだから。」
そんな夫の言葉に、妻はようやく納得したように微笑んだ。
祐一が水瀬家に厄介になる2日前のことだった。
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