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| 第13話 親の仕事:Dパート | 目次 |
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火照った体とかじかんだ指先。
体温のアンバランスはこの時期の練習に特有のものだ。
だから、汗をかいているのに手袋をして走る。
長距離の選手はみんなそうだ。
ゴールを過ぎても、まだそんなことを考えていた。
今日は途中でタイムを見る余裕がなかった。
決して速かったとは思わない。
余裕が無かったのは、身体ではなくて心だ。
体育館の時計を見ると、もう練習の終了時刻が近かった。
一体どのくらいで走ったんだろう?
練習をする時にはポニーテールにまとめている髪の毛を左右に揺らしながら、名雪はクールダウンを始めた。
「水瀬さん、今日はあんまり調子よくない?」
顧問が不思議そうに首を傾げた。
テスト期間で部活が休みだった分、休養充分のはずの名雪のタイムは、何故かテストが始まる前よりも落ちていた。
「え、あぁ…そうかもしれません。」
名雪は顧問の脇をゆっくり駆け抜けながら答えた。
長距離を走った後で急に止まるのは良くない。
そう教えられていた。
トラックを一周してきたとき、また顧問が話しかけてきた。
「風邪かしらねぇ?」
「そうかもしれません。」
そしてまた駆け抜ける。
極端に会話の間が開いた、間延びし過ぎた会話。
そんな不自然な光景もあと数周で終わる。
名雪はクールダウンを5周と決めていた。
大好きな苺。
いち、ご。
でも、1周では短すぎるから、5周。
おまじないというよりは単なる語呂合わせに過ぎない、下らないジンクス。
それでも1コースや5コースが当たると嬉しくなる。
良い成績が出ると、ますますそう思う。
だから、何か良いことが起こりそうな気がして、出来るだけその数に近づける。
名雪が両手をぶらぶらと振って簡易マッサージをさせながら最後の周回を終えると、顧問が記録ボードを手に寄ってきた。
「気をつけてね。風邪流行ってるから。」
「はい、ありがとうございます。」
簡単に答えて、集合をかける。
声が小さい名雪は、マネージャーに頼んで笛を吹いてもらうのが普通だ。
トレーニング室にこもって筋力アップのためにトレーニングをしている者もあるから、名雪の声が大きかったとしても笛で集合させる方が良いだろう。
だが今日はマネージャーは休みだ。
確かに風邪が流行っているらしい。
だが、これは今の時期に限らない。
特に連休前の部活にはいつものことだ。
諦めたようなため息を一つした後名雪が笛を吹くと、体育館のあちこちから陸上部の部員が顔を覗かせた。
「終了です〜。」
ぱらぱらと集合してくる陸上部の部員の数は、しかし、登録されている人数の半分にも満たない。
……従兄弟の姿も見えない。
名雪の隣で顧問が今日の総括を話している。
部員達は皆退屈そうに顧問の話を聞いている。
前の部長なら、佐祐理の前でなら、こんな風景は見当たらなかった。
だから、自分の器量の問題なんだろう。
自分は他人を引っ張っていくようなタイプではない。
上手にまとめることが出来るわけでもない。
他人の世話を焼くのは嫌いではないけれど、それはどちらかと言えばマネージャーに求められる資質ではないだろうか?
「…え〜と、そう言うわけで、部員が一人増えました。」
顧問の声で我に返った。
従兄弟のことだ。
顧問は祐一の名前を全員に伝え、部員達も一部を除いて何事もなくその報告を受けた。
除かれなかった一部の視線が痛くて、名雪は俯いた。
彼らは、彼女らは、同じクラスの部員だ。
祐一が名雪の従兄弟であることを知っている。
それはからかうつもり、冷やかすつもりの視線だったかも知れない。
だが、名雪は別のことを言われているように感じていた。
自分は、自分の従兄弟すら真面目に部活に来させることの出来ない部長だ。
「……それじゃ、解散。」
顧問の言葉がかかると、名雪は逃げるように部室に戻った。
女子更衣室に飛び込むと、手早く汗ばんだTシャツとスポーツ用の下着を脱ぎ捨てて、普通の下着を身につける。
その頃になってようやく他の女子がどやどや、と戻ってきた。
「暑い〜。帰りどっか寄ってかない?」
「え〜?あたしはもう寒いよ。」
「そりゃ流し過ぎだよ。」
思い思いの会話が耳に飛び込んでくる。
名雪は出来るだけ手際よくブラウスのボタンを留めていった。
「名雪、急いでるの?」
彼女の思いとは裏腹に、クラスメイトはやって来てしまった。
ぱたぱたとシャツを上下させて風を入れている。
「う、うん。」
「そう♪彼氏のとっこっろに行っくのっかな〜?」
クラスメイトは冷やかすように踊りながら離れていった。
離れていったと言うよりは、みんなに言いふらしに行った、というのが正しいかもしれない。
たちまち名雪の周りに人垣が出来る。
「え?水瀬先輩、彼氏出来たんですか?」
後輩まで興味津々で寄ってきてしまう。
「ち、違うよ〜。」
そう言いながらも、自分の顔が真っ赤になっていくのが判る。
「え?じゃあ、何ですか?」
「もしかして、さっきの新入部員と関係あるの?」
部員が次々に寄ってきてもう誰が何を聞いているのか判らない。
こういうときは、部長で良かったと思う。
丁寧語を使わなくても、誰にも失礼にならない。
「実はさっきの新入部員が従兄弟なんだよね〜。」
クラスメイトが自慢げに話している。
「えっ!?じゃあ、それが彼氏とか?」
「そうなの?」
「え〜っ!そうなんですか?」
「じゃあ、もう部活毎日一緒じゃないですか!?」
自分の知らないところで話が進んでしまいそうだ。
恥ずかしいながら、それはそれで嬉しい。
だが、祐一は迷惑そうだったではないか。
名雪は慌てて首を振った。
「違うよ〜。まだそんなんじゃ…。」
「あ、”まだ”ってことは、水瀬先輩……。」
「わ〜、いいな〜。」
きゃいきゃいと騒ぎ立てる後輩達は、無邪気だ。
その分だけ、とても悲しかった。
幸せな瞬間は今だけだ。
この調子なら、きっと祐一は部活に姿を現さない。
浮ついた噂はすぐに、『従姉妹が部長なのでさぼりやすいから入部しただけ』という現実論にすり替わるだろう。
そして実際にそうなのかも知れない。
やはり、あゆや秋子が言ったように、本人が望みもしないのに入部させても辛い結果にしかならないのだ。
(……だから、短距離を走りたい……。)
名雪は望みもしない長距離で走らざるを得ない自分の状況に重ねて俯いた。
「…名雪、ゴメン。ちょっとからかい過ぎたかな?」
クラスメイトが名雪の異常に気がついて身体を寄せた。
後輩達も部長が黙ってしまったので気まずそうに離れていった。
「ううん、ごめん。わたしがちょっとはしゃぎすぎたのが悪いんだよ……。」
名雪は力の無い声で微笑んだ。
そんな笑顔を見せられても少しも気が休まらない。
クラスメイトは敢えて返事をせずに微笑を返した。
「げ〜。雪降ってる!」
一旦更衣室の外に出ていた部員が不機嫌そうな顔で逃げ戻ってきた。
「まじ?あたし傘無いのに…。」
「置き傘無かったっけ?」
「盗られた。むかつく。」
「折り畳みあるよ〜。」
名雪の話題はどこかに消えて、部員達は新しい話に飛びついていた。
その喧噪から逃れるように、着替えを終えた名雪は鞄を持って部室を出ていった。
傘は無い。
だが今の自分には、雪が降る中を傘も差さずに歩く、そんな風景が似合っている。
そう思って空を見上げた。
(結構降ってる、かも……。)
歩くのは諦めて、走って帰った方が良いかもしれない。
いや、途中でコンビニに寄ってビニール傘でも買って、それから歩くのが一番現実的だ。
昇降口で靴を履き替える。
外はいつの間にか真っ白になっていた。
全てを包み込んで、同じ色に変えていた。
まるで最初からそこに何もなかったかのように、真っ新にしてくれていた。
(歩いて帰ろう。)
名雪はそう決めた。
白い雪に包まれてしまえば、全てをやりなおせる。
名雪は降りしきる雪の中に一歩を踏み出した。
ずいっと。
突然、目の前にそれは現れた。
「これ、やる。」
「え?」
名雪は目をしばたたかせた。
「遅れたお詫びだ。」
少し茶目っ気を込めたその台詞は、一週間前に名雪が放ったものだ。
その相手が、同じ言葉を返してきたんだ、と気がついたとき、名雪はようやく普段の微笑みを取り戻していた。
「わたし、イチゴミルクが良かったよ。」
「贅沢言うな。」
祐一は名雪に傘を渡しながらそう言った。
北川の家から出てすぐに学校に向かったが、途中で雪が激しくなったのでコンビニに寄ったために部活の終了に間に合わなかったのだ。
ついでにビニール傘を二つ買って来た。
それと缶コーヒー。
「これさえあれば2時間の遅刻もチャラのはずだからな。」
祐一は胸を張ってそう宣言した。
「違うよ〜。7年ぶりの再会のお祝いだよ〜。」
「それと、懐炉だな。」
二人にしか判らない会話が出来る、幸せがある。
「だから、イチゴミルク……。」
「だから、贅沢言うな。」
「う〜…。」
そう言う割には、名雪の顔は楽しそうだった。
「お夕飯、何が良いかしらね〜!」
すっかり元気を取り戻した佐祐理が大声を張り上げている。
良かった、と舞は純粋に安堵しながら、別の緊張の糸をゆっくりと紡いでいた。
さすがに本職の人は違う。
舞はほんの数時間前に行われた治療を思い返していた。
母の招きで呼ばれてきた女性が倒れている佐祐理の頭に軽く触れると、佐祐理は目を半分開いて起きあがった。
そのままふにゃふにゃと彼女に抱きつく。
「ごめんなさい〜。」
「佐祐理。謝っても許されることではないのよ?」
雨宮は厳しい台詞を、何の感情も込めずに投げかけた。
「……はい。」
「あなたに出来るのは、あの子の分まで生きて、あの子の分まで夢を叶えること。それだけよ。判る?」
「……はい。」
「あの子はもう帰ってこないの。だけど、送り出したあなたは待っていないといけないわ。」
舞ははらはらしながら様子を見ていた。
前回は小さ過ぎて判らなかった。
だが、それにしても、ここまで直接罪の意識をぶつけたはずはなかった。
佐祐理は大丈夫だろうか?
「…はい。」
「あの子はずっとあなたを見ているわ。あの子にとっては、佐祐理、もうあなただけが希望なの。」
「…はい。」
「あなたが足を止めたら、あの子はもう夢を見ることも出来ないのよ。いつまでも立ち止まっているのは止めなさい。」
「はい。」
力強く頷いて、佐祐理は目を閉じた。
ぱたん、と木切れが倒れるように再び横になる。
「今度起きたらもう大丈夫ですから。」
雨宮はそう言って、大きく編み上げた自分の長い髪を撫でた。
一部始終を見ていた麗は立ち上がって深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。こればかりは私では……。」
「ですよね〜。従う者にとっては苦手分野ですよね〜。」
雨宮はのほほんとした笑顔でそれに応えた。
その細い目の隅で、舞を捉える。
「う〜ん、抗う者、でも、無理かな?」
「無理でしょう。彼女の心の問題ですから。」
麗は舞の返事を待たずに答えた。
「語りかける者っていうのは?」
雨宮は少し悪戯っぽい表情を浮かべた。
麗はそれに乗らずにゆっくり首を振る。
「弱いでしょう。動かす他には無いです。それと、やはり専門の知識がないと……。」
だから雨宮さんを呼んだ、と麗は言う。
雨宮は不満そうに口を尖らせた。
「麗、真面目過ぎ。」
「雨宮さんが不真面目なんですよ。」
そう言って笑った母の顔は、とても楽しそうだった。
今の私には、向けられない笑顔。
これだけ経験を積んでも、やはり他の者に依存した、危なっかしい力。
いつか失う日もあるだろう。
だから、私はこうして学ぶ。
舞はぐっと鉢巻きを締めた。
力強く締められる、鉢巻き、2本。
「…見えない…。」
「あはは〜、ちょっと下過ぎた?」
いつの間にか舞の背後に回っていた佐祐理が舞にタオルで目隠しをしている。
「…見えない…。」
「先にご飯にしようよ〜。」
舞の首に抱きつきながら、佐祐理はそう言って甘えた。
自力で目隠しを取り、眉根を寄せて佐祐理を見る。
「お腹空いたよ〜。」
「……私も……。」
佐祐理の笑顔には逆らえないだろう。
舞はルームサービスのメニューを佐祐理の手からひったくるように奪い取り、夕食の品定めを始めた。
窓の外ではいつの間にか雪が降っていた。
<続き>