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| 第10話 偽りのヒロイン:Aパート | 目次 |
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着慣れない制服は首周りが痛い。
それにどう見ても制服に着られているような気がして似合っていないと思う。
朝から憂鬱な気分で階段を下りた祐一は、のっそりと席に着いた。
リビングには祐一の気分とは無関係に、普段通りに朝食の準備が出来上がっていた。パンの焼ける香ばしい香りが満ち、コーヒーには湯気がくゆっている。
「おはようございます、祐一さん。」
「祐一君、おはよう。」
秋子は新しい学生服で食卓に現れた祐一に、いつも通りの挨拶を届けた。
既に席についていたあゆも、何事もなかったかのように挨拶をしてくる。
「制服、似合ってますよ。」
一言で祐一の不安を解消して、秋子が台所に姿を消す。
そう言われてみると前の制服よりも居心地が良いような気がしてくるから不思議だ。
我ながら単純だ、とは思いつつも、そう言われて悪い気がする人間はいないだろう。
祐一は晴れやかな気持ちでパンを手に取った。
(………ん?パン??)
祐一は口に運び掛けたパンとテーブルの上の風景を見比べて、その異常に気がついた。
昨夜あれだけ残っていたおかずが一つも見あたらない。4人分の弁当を作っても有り余るほどあったはずだ。だが、今朝は何故かパンになっている。
確かに、通常なら夜と同じ食事が朝、昼と続いては飽きるかもしれないが、何しろ多かったのは量だけではなく、その種類もどこかのバイキングのように豊富で、3〜4食続いたところで飽きを感じさせないと思われる。
それ以前に、居候の身で弁当まで作ってもらっているのだから、感謝こそあれ『同じメニューは飽きる』などといった文句があろうはずがない。
(そんな贅沢を言ったら罰が当たると思うんだが……。でも、秋子さんの立場からすれば逆に気を遣ってしまうのかもしれないな……。)
預かった以上は出来るだけのことはしておきたい、というのだろうか。
とても嬉しいが心苦しくもある。
祐一はパンを皿に戻してキッチンに向かった。
「秋子さん、俺は昨日の残り物で良いですよ。」
秋子の方からは言い出しにくいだろうから、と、祐一は自分からそう申し出ることにした。
失礼に聞こえないように、と充分気を遣ったつもりだったのだが、それでも秋子は困ったような嬉しいような不思議な顔をした。
「祐一さん、ご飯の方が良かったんですか?」
秋子の言葉を聞いて、祐一は慌てて首を横に振った。
「いや、その、パンも良いんですが、昨日たくさん残してしまったから。俺だけでも……。」
「まぁ……。」
秋子は大きく目を見開いて、手を口の前に当てた。
だが、その口から、ありがとう、とか、気を遣わなくても良いのに、などといった類の言葉は続かなかった。
「でも、無いんですよ。」
お弁当も作れませんでした、とすまなそうに話す。
「え?あんなにあったのに無くなったんですか?」
祐一は驚いて目を丸くした。
同時に、無くなったのではなくて捨ててしまったのではないか、という疑念も湧く。
だが、そんな祐一の疑いを、秋子はあっさり打ち消してしまった。
「えぇ。夜の間に無くなったんです。ですから、今日は祐一さんも名雪も学校の食堂で食べて下さいね。」
「あのですね、秋子さん。食べ物が勝手になくなるはずが無いじゃないですか。作り過ぎで余っていた位なんですよ?腐ってしまったとか捨てたとか言っても怒らないですから、本当のことを言って下さい。最悪、泥棒か何かが入ったのかもしれないじゃないですか。」
知らない間に食べ物が無くなっていて平気でいられる感覚はどう考えてもおかしい。
祐一は危機感を感じながら詰め寄った。
秋子は首を傾げながら困ったように眉を顰めたが、やがてちょいちょい、と祐一を手招きをした。
今も充分近くにいるのに、と思いながら、祐一が一歩前に踏み出ると、秋子は祐一の耳元にそっと顔を寄せてきた。
上品な香りが漂ってきて、思わず息を止めてしまう。
「祐一さん、名雪には内緒にしていて下さいね。」
「は、はい………。」
どうということもない会話に、意味もなく緊張してしまう。
祐一は自分の動悸が激しくなっていることを認識していた。
その激しい胸の鼓動の合間に。
『実は猫がいたんです。』
そんな囁き声が聞こえたような気がする。
『それで全部猫にあげちゃったんですか?』
『はい。』
呆れたように聞いた祐一に、秋子はにこやかな笑顔で応じた。
『猫は一回あげると毎日来ますよ。』
『そうかもしれませんね。』
家主である秋子が特に困った様子も見せないのでこれ以上は祐一も文句を言えない。が、なんとなく自分の役割を猫に取られたような気がして情けなくなる。
『で、何匹いたんですか?』
あれだけの量のご飯を食べる猫がいるとは思えない。
猫の群が夜な夜な水瀬家の勝手口に集まる様子を想像して、祐一はげんなりとしてしまった。名雪にばれるのも時間の問題だろうし、そうなれば毎日、猫アレルギーの従姉妹を猫から引き離す作業が加わることになるだろう。
『一匹です。』
「はぁ!?」
思わず大声を出してしまった祐一をたしなめるように、秋子は自分の人差し指を祐一の口に当てた。
もう一度祐一にきつく口止めをしてから、秋子はそっとキッチンの隅に据えられた段ボール箱の中身を示す。
そこには、お腹を膨らませた白猫が満足そうに眠っていた。
『今は静かに眠っていますけど、昨夜ここに来たときにはすっかりやせてふらふらしていたんですよ。』
『…………なるほど。』
祐一は秋子から聞いた猫の情報と自分の目の前で偉そうに眠りこけている猫の姿を比べて、自分の弁当が消えた理由を実感していた。
もう一度じっくりと白猫の姿を見る。
4本の足先と尻尾、耳と顔の中心といった突起部分が全て灰色の、猫好きにはたまらない”美猫”だ。
確かに、こんなものを見つかったらとんでもないことになる。
これは今朝は名雪をキッチンに近づけるわけにはいかない。
そう考えた祐一が猫を見つめて深刻な顔をしていると、秋子がにこっと笑った。
「祐一さん、大丈夫ですよ。名雪を近づけない方法はたくさんありますから。」
ちょっとだけ協力して下さいね、と言う秋子に頷いてから、祐一はダイニングに戻った。
「あゆ、真琴と名雪は?」
ホットミルクとにらめっこをしていたあゆに声を掛ける。
「まだ寝てるよ。」
祐一は不思議そうに首を傾げているあゆの目の前で、天井を指さした。
「起こしに行くけど、一緒に行くか?」
「うん!」
朝から元気いっぱいな返事が返ってくると気持ちがいい。
祐一は悠然と二人を起こしに階段に向かった。その後ろをあゆがとてとて、とついてくる。
「それにしても、名雪が自分の目覚まし時計に耐性があるのはもう諦めるとして、真琴が起きてこないのは不思議だな?」
祐一は不思議そうにそんな疑問を口にした。
名雪の部屋の隣でその目覚ましの被害を被っている祐一にとって、真琴があの大音響で起きてこないのは不思議であり、羨ましくもあった。
あゆと真琴が寝ている部屋は、祐一とは反対側で名雪の部屋に隣あっているから、音の被害は共有しているはずだ。あゆが真琴の秘密を知っているなら聞いてみたいところである。
「まこちゃんは布団の中に丸まってるから時計の音が聞こえないんだよ。」
あゆは祐一の背中に向けて説明をした。
なるほど、それなら確かにあの目覚ましの音に耐えられるかも知れない。
なにしろ雪国だけに掛けている布団の量が違う。
その中に丸まっていれば…………。
『息苦しくて仕方ないんじゃないのか?』と言おうとした祐一の目の前に、突然緑色の物体が姿を現した。
階段に立つ二人を圧倒するかのように迫ってくるそいつの正体は……。
「………かえるだ。」
「祐一君、なまってるよ?」
背の低いあゆには祐一の背中が邪魔になってその物体が見えない。
『カエルだ』という祐一の言葉を、東北地方の方言、『帰るだ』と聞き間違えたようだ。
その、つぶらな瞳の憎い奴は、”重力は常に上から下に向かう者に味方する”という普遍の法則を最大限に活かしてのしかかってきた。
ごろごろごろ!と激しい音とともに、3人と一匹は階段を転がり落ちてしまった。
「………。」
「おはようございます〜。」
むくっと浮き上がってきた長い髪に向かって、おもむろにちょっぷをかます。
「……痛い……。」
「そりゃこっちの台詞だっ!」
祐一はまだ寝ぼけている従姉妹を大声で怒鳴りつけた。
巨大なぬいぐるみがクッションになったためか、誰も怪我をした人がいないことが唯一の幸いだ。
祐一が余りの恐怖に放心したようになっているあゆを助け起こしていると、二階から『ふぁあ〜』という寝ぼけ声が聞こえてきた。今の衝撃で真琴が目を覚ましたらしい。
「おはよう、まこちゃん。」
小さな身体で二人分の体重を受け止めたのに、あゆは既に祐一よりも元気いっぱいに回復しているようだ。
一方、睡眠生物の方はというと、階段を転がり落ちた衝撃にも負けずに、再びこっくりこっくりと居眠りを再開していた。
祐一はさすがに呆れて天井を見上げた。
その視界に再びおかしなものが飛び込んでくる。
「…?お前、何その格好?」
祐一はあんぐりと口を開けて真琴の顔を見つめた。
真琴は祐一の視線から逃げるように、頬を膨らませてそっぽを向いた。
「い、いいでしょ、別にぃ〜。祐一には関係ないもん。」
「それはそうなんだが………。」
真琴は階段の下に陣取る3人と一匹を器用に避け、ぴょんぴょん、と跳ねながら台所に移動していった。
頭に猫のような耳をつけたまま……。
歩く度にぴこぴこと器用に動くそれは、まるで本物の動物の耳のようだった。
「……あゆの羽みたいなものかな?」
「そんなの、ボク知らないよ〜。」
祐一から突然質問をぶつけられたあゆは驚いて咄嗟に首を振った。
もっとも、あゆも真琴の耳には興味津々のようで、すぐに真琴を追ってダイニングに向かっていった。
(はぁ。仕方ない。一人で名雪を起こすか……。)
ここに来てからの時間はまだ短かったが、水瀬家の朝は名雪を起こさないことにはどうにもならない、と祐一はしっかり認識していた。たとえ名雪抜きですんなり朝食が終わったとしても、居候の祐一としては名雪をおいたまま登校するわけにもいかない。
覚悟を決めて名雪が眠っている床に目をやったが、そこにはもう誰もいなかった。
慌てて辺りを見回すと、騒動の一番の元凶が功労者のぬいぐるみを抱いてキッチンに消えて行くところだった。
(まずいっ!!)
本人が寝ぼけているとはいえ、アレルギーの方は眠ってはくれない。
アレルギーというレーダーが猫の存在を感知し、くしゃみ鼻水鼻づまりで猫の隠れ場所を伝えてくれる、という、誰にとっても迷惑極まりないシステム。
だが、一度それで猫を見つけ出せば名雪がどんな反応をするかは火を見るよりも明らかだ。
「おい、こら!名雪!!」
祐一は慌てて従姉妹のパジャマの首根っこを掴むと、そのまま力ずくでダイニングまで引きずっていった。
当然ケロピーも一緒だ。
どうにかこうにか名雪を席に座らせ、自分も椅子に座る。
改めて机を見回せば、真新しい制服に身を包んだ自分、羽のないあゆ、猫耳を載せた真琴、全身緑色のケロピー、机に突っ伏して寝直している名雪………。
(怠惰に寝込んでいる奴だけが普段通りというのはどういうこった………。)
我ながら情けなくなって涙が出る。
「おはようございます、みなさん。」
秋子がトレイ一杯に人数分の皿を載せて顔を見せた。
ようやく名雪も顔を上げ、朝食が始まる。
いつもは一緒には食べない秋子も今朝は食卓を囲み、5人と1匹の不思議な食卓風景が完成した。
「家族が増えて嬉しいわ。」
秋子はのんびりと頬に手を当てて、穏やかに微笑んでいる。
その目の前には食べるばかりになっているサンドイッチと手つかずの食パンが置いてあった。
サンドイッチも美味そうだが、残念ながらジャムが塗ってある。
祐一は食パンの方に手を伸ばした。
「祐一さん、ジャムつけないんですか?」
秋子の視線は残念そうに祐一の指先を追った。
確かに、手作りジャムを避けるように食パンを取られたら余り良い気分がしないのかもしれない。
祐一は少し引きつった笑顔を作って『俺、甘いの苦手なんですよ』と言い訳した。
「…甘くないのもありますよ?」
途端に寝ぼけていた名雪が飛び上がり、ダイニングから姿を消した。
去り際にケロピーではなく、イチゴジャムのついたサンドイッチを一個奪い取っていったその素早さは、もはや神の領域に達していた。
「ど、どうしたんだ?名雪?」
祐一に残された時間では従姉妹の消えた扉に向かってそう問いかけるのが精一杯だった。
その隣で秋子が鮮やかなオレンジ色をしたジャムが入った瓶を開く。
祐一の好みに合った味のジャムまで準備されてはさすがに断れない。
祐一は不承不承、真琴とあゆは興味津々でそのオレンジ色のジャムをパンに塗った。
秋子はその様子を嬉しそうに見つめていた。
「きっとまだ着替えていないことに気がついたんでしょう。」
秋子は娘が消えた扉の向こうを見ながらそっと微笑んだ。
この時、秋子の笑顔が少し無機的だったことに気付くのは、祐一を初めとする3人が、一口食べるだけで人間の本能が警鐘を鳴らすような形容しがたい味を体験した後だった。
<続き>