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1月 9日 土曜日
『朝〜、朝だよ〜。』
……。
『朝ご飯食べて学校行くよ〜。』
……。
『朝〜…。』
カチッ!
「……。」
布団から手を伸ばして、枕元の目覚ましをオフにする。
「…眠い。」
何しろ眠った時間が時間である。まだまだ眠すぎて頭がガンガンする。
「…しかも、寒い…。」
室内の冷たい空気から逃げるように、もう一度布団の中に避難する。身体を丸め、布団の暖かさに感謝しながら微睡む。
ジリリリッ…!
くぐもったベルの音が寝ぼけた頭に響く。
「……。」
ほとんど無意識に目覚ましに手を伸ばす。
カチッ!
『朝〜、朝だよ〜。』
「…あれ?」
もう一度押す。
ジリリリッガガガガガッブウーーーッ…!
今度は明瞭な目覚ましの音が、遠慮会釈無く祐一の寝不足な脳髄に侵入してくる。
堪らず布団から顔を出すと、より激しさを増した目覚ましの音がシャワーのように祐一の全身を襲った。音源は壁一枚隔てた隣の部屋。
「……。」
どんなに夜更かししても寝坊はしなさそうだ。
もれなく寝不足がついてくる、という有り難くない特典付きだが…。
更に有り難くないことには、騒音がどれだけひどくとも寒さは割り引かれないと来ている。祐一は騒音と低温の2重の責め苦に追い立てられて、手早く着替えを済ませた。
息を止めるようにして廊下に顔を出すと、更に一段階ボリュームが上がる。
(気が狂うよ……。)
近所迷惑、と言いかけてこの家の大きさを思い出す。名雪の部屋の両側は祐一の部屋とあゆ達が寝ている部屋。あゆ達の部屋の向かい側に秋子が寝ている部屋がある。今改めて見ると、更にその奥には布団などを入れておく納戸もあるようだ。これなら、少々の音はこの方向の家には聞こえないだろう。そして、窓に面した側は人の住んでいない川岸。道路側には広めに取ってある庭。
(まさかそのために大きくしたんじゃないだろうな?)
母一人子一人の家庭の、二階だけに4部屋……。
「でか過ぎ。」
「ごめんね。」
祐一は、そのさして大きくない声に飛び上がるほど驚いた。
「な、名雪かっ?」
「うん。音大きすぎた?」
いつの間にか目覚ましは全て止められていた。
祐一の目の前にはパジャマに半纏を着た名雪の姿があった。朝の名雪はまだ2度ほどしか見ていないが、寝ぼけていない名雪は初めて見るかもしれない。
「い、いや。そんなことはあるんだが……。」
「おはよう。祐一。」
祐一のそれとない抗議はあっさり流される。まじまじと見れば、オーソドックスな、赤地に黄色の花柄パジャマだと思っていた柄は「猫の足跡」で、同じように赤い半纏の模様もそこかしこに猫の顔が並んでいる。ご丁寧に個々の猫の名前まで書いてある。
「あぁ、おはよう。」
「そんなことより、あゆちゃんがいないんだよ……。」
名雪は祐一の挨拶を”そんなこと”扱いにして再び流すと、眉を寄せた。
………。
目覚めれば目覚めたで、このマイペースぶり。
やられっ放しはさすがにちょっと悔しいので仕返しをすることにする。
「あぁ、あゆなら昨日の夜、泣きながら俺のとこに来て”名雪さんの寝相が悪くて蹴られるよ〜うぐぅ〜”って言ってたぞ。だから帰ったんじゃないか?」
「わ、ほんと?」
名雪は目を丸くしてあっさり信じる。
どうも昨日の夜秋子が言った、寝相も悪い、というのも真実……それも、かなり激しそうだ。
「わ、わ、どうしよう……、あゆちゃん、痛かったかな?」
激しく落ち込み俯いている名雪がさすがに可哀想になる。
「安心しろ、冗談だ。」
一瞬目をぱちくりした後でぷんぷんに怒り出す。
「うにゅ〜、わたし、ほんとにびっくりしたんだよ?」
怒ってもあんまり迫力がない。
「…だけど、あゆが逃げ出したのはほんとだ。時計の音が怖いからって、結局他の部屋に行ったぞ。」
「うみゅ……。…やっぱり音大きいかなぁ……?」
名雪の怒りはあっさり収まった。
あゆが怖がったのは朝の時計の音ではないのだが、ここは敢えて黙っておく。
理由はまだ定かではないが、折角名雪が早起きしたので祐一は時間を無駄にしないよう、名雪をキッチンに追い立てた。
食卓に顔を出すころには、すでに部屋の中がコーヒーの芳ばしい香りで満たされていた。
「おはようございます。」
「お母さん、おはよう。」
「え?」
秋子は訝しげに振り返った。
「あ、あぁ。おはようございます、祐一さん。びっくりしましたよ。名雪が起きてきたのかと思いました。」
秋子は、片手を頬に当てて微笑んだ。
「娘さんは目の前にいますが?」
「お母さん、私ちゃんとここにいるよ〜。」
名雪は情けない声を出して自分の存在を主張した。
「そんなわけないと思ったんですけど、本当にいるんですねぇ?」
まだ半信半疑で自分の娘の姿をしげしげと眺める。
「なんだかお腹が空いて起きちゃったんだよ………。」
名雪はへろへろ、と机に突っ伏した。
「そうか?俺はそうでもない………。」
言いかけて思い出す。
「あぁ、俺達は昨日の夜中にお茶漬け食ったから。」
「えぇっ!?」
名雪は祐一が居候を始めてからこれまでで一番大きな声を出した。
「ずるいよ〜。どうして起こしてくれなかったんだよ〜?」
「起こすとかじゃなくて名雪が起きなかっただけじゃないか。」
「……極悪人、だよ……。」
祐一は、そこまで言うか?と思ったが、名雪本人は至って真面目に睨んでいる。
やっぱり少し寝ぼけているのか、ちょっと焦点が合っていないのがまた怖い。
このままでは恨みが晴れないようなので、祐一は昨日の夜の状況を丁寧に説明してやった。その間に、映画のワンシーンにでも出てきそうな、きつね色の焦げ目が入った食パンと綺麗に盛りつけられたサラダが、緩やかな湯気を湛えたコーヒーカップを従えて運ばれてくる。
「…と、いうわけで、別に名雪をのけ者にしたわけじゃないぞ。」
祐一は秋子の手から自分のトレイを受け取りながら説明を終えた。
「うー…、でも、でもっ。やっぱり、一人は嫌だよ……。」
「だったらちゃんと起きろ。」
ぱりっと音を立ててパンにかぶりつく。
のそのそ、とジャムを塗りたくる名雪はまだ未練があるようだ。
「でも、ほんとなんだよね…。段々大きな音にも慣れてきてしまって…。」
最近じゃすっかり、全然起きないようになってしまったんだよ〜、と嘆きながら、いつまでもジャムを塗り重ねる。
「おい、塗りすぎてないか?」
「……あゆちゃんにも逃げられちゃったしぃ……、そろそろ本格的に別の目覚まし方法を考えないといけないよ〜……。」
祐一の指摘を無視するかのように、更にジャムの瓶に手を伸ばす。思わずジャムの瓶を手で塞ぐ。
「つけ過ぎだって。」
「え?普通だよ?…あれ?祐一、ジャムつけないの?」
邪魔をされた名雪は、逆に、バターしか付けない祐一の方がおかしい、とばかりに訝しげに見つめる。
確かに、テーブルの上にはいつの間にか色とりどりのジャムの瓶が並んでいた。ラベルが貼られていないことから、これまた自家製であろう、と予測できる。
と、いうことは、俺が無神経に手作りジャムを無視しているのか?と、祐一が戸惑っている隙にイチゴジャムを取り戻した名雪は幸せそうに「壁塗り」を再開した。
「あんまり甘い物は好きじゃないんだ。」
「…わたしはつけるよ。大好きだから。」
それにもほどがあるだろう?と思う。
祐一が見ている前で、名雪は幸せそうな目で、ジャムのたっぷりとのったパンを口に持っていき、大切そうに、はぐ、とパンの隅っこをかじる。
「わたし、イチゴジャムがあったらご飯3杯は食べられるよ。」
「怖いこと言うなぁ……。」
昨日のイチゴジャム餅を思い出して、冗談でも無さそうだ、と背筋を寒くする。
「あれ?祐一、もう食べたの?」
「食パン1枚くらい、10秒あれば食える。」
「あれ?そんなに急ぐ時間?」
と言いながら、しゃりっ、とサラダを口に運ぶ。
「名雪と一緒に朝ご飯を食べると、何となく急がなくちゃいけないような気になってくるんだ。」
「わ、祐一、ひどいこと言ってるよ……。」
とはいえ、朝の忙しい時間にこれだけのんびりされると見ている方が焦ってくるのは自然な感情だろう。祐一はテレビで時間を確認してみることにした。
「おい、ほとんど昨日と同じ時間になってるぞ?」
祐一の脳裏に昨日の”朝のマラソン”が蘇る。
しかも、今日の名雪はまだ制服に着替えてもいない。
「イチゴジャム、おいしい。」
…更に、状況を把握してもいないようだ。
「急ぐぞ名雪っ!」
祐一は従姉妹に命令を出した。
「え?だって、まだあゆちゃんも来てないし……。」
「……お前は昨日寝ぼけていたから知らないかもしれないが、あゆの学校は制服も無いし、休みたいときに休める。つまり、行きたいときに行けばいい。で、あゆは今寝てる。多分休む。俺と名雪は普通の学校。つまり、遅刻あり。」
了解?と祐一が聞く前に名雪は陸上部部長の片鱗を見せていた。
「…祐一。」
通学路を早歩きで進みながら、名雪が問いかける。
「ん?」
「寒いの、慣れた?」
言葉とともに吐き出される白い息が、単語に裏付けを持たせる。
「まだこの街に来てから3日目だぞ。そんなすぐに慣れるわけないだろ。」
そうかな?と名雪が首を傾げる。
「でも、前に来てた頃は3日もすれば慣れるって言ってたと思うよ?」
「若かったからな。」
一言で解決する。
この辺に住んでいた、というのはもう随分前になるだろう。それからしばらくは長期休みの時期だけここに来るようになり、7年前を境にそれすら無くなった。身体はすっかり寒さへの耐性を失っている。
「はぁ。なんだかもうお爺さんみたいだね。」
名雪はため息混じりに祐一の態度を非難した。
「孫の顔が見たいってか?」
「わ、気が早いよ。」
「……?」
祐一の冗談に、名雪は”意味もなく”顔を赤らめた、と祐一は判断した。
沈黙が流れる。
祐一が、”お爺さん”と”お祖父さん”を取り違えたと気づいたのはそれから更にしばらく経ってからだった。
今更ながらに、他の話題を探す。
「えーと、今日は折角早く起きたのに茶漬けの説明で時間食ってしまって悪かったな。」
ほとんど棒読みだ。
「え?あ、ううん。そんなこと無いよ。」
何故だか、ひどく嬉しそうに名雪が微笑む。
妙に眩しいのは雪の照り返しのせいか?
「いや、名雪の早起きなんてもうこの後見られないかもしれないのに……。」
祐一は照れ隠しに茶化してみた。
「わ……みんなひどいよ……。」
名雪の顔から急に笑顔が消える。
本人なりに気にしているらしかった。
「努力はしてるんだよ。」
寂しそうに、ぽつりと呟く。
「昨日みたいに、消化の良いものを食ったら腹減って起きるんじゃないか?」
「そ、それはそうだけど……。あんまりやりたくないんだよ……。」
太るから、と聞こえたような気がする。
そういえば、何かの番組で、消化の良いものを食べると、吸収される栄養分は変わらないのに嵩だけはしっかり減るのでついつい余分に食べてしまう、と聞きかじったことがある。
「はぁ…目覚まし時計、増やそうかな…。」
「今ので起きないんだから、あれ以上増えたって大して変わらないぞ?」
昨夜の騒動の中で、皿が割れたときの音は相当なものだった。
目覚ましの「響く」音とは異質な、耳を「劈(つんざ)く」音だったにも関わらず、名雪は眠りの世界から戻っては来なかった。部活などで疲れているせいもあるのだろうが、眠りが深すぎるのも少しだけ心配だ。
「あ。いつの間にか歩いてたね。」
そう言いながら、名雪は腕時計に目をやった。
名雪の言葉通り、いつしか二人は早歩きをやめていた。会話に夢中で気がつかなかったのだろう。
「少し走った方がいいかも。」
どこか嬉しそうに提案した名雪と一緒に、祐一は昨日に続いて雪景色の中を走った。
しばらく走ると校舎が見えてくる。
「…よかった。間に合いそうだよ。」
走りながら手首をこねて時計を確認する。
その仕草が様になっていて格好良い、と素直に思えた。
「…名雪、長距離走とかも得意だろ?」
「あ、よく分かったね。」
不思議そうに首を傾げる。
「走りながら時計見るの、慣れてるっぽかったからな。」
「うん。トラックじゃないときは時計欠かせないよ〜。」
目印になるものがないし坂もあるから、ちょっと気を抜くとスローペースとかオーバーペースになっちゃうんだよ、などと、いかにも専門っぽい答えが返ってくる。
悔しいのでまたからかってやることにする。
「ま、朝いつもやってるっていうのもあるだろうな。」
「……やっぱり目覚まし増やそうかな…。」
俯いて真剣に思案している名雪の顔が、どこか微笑ましかった。
いつの間にか、視界の中に名雪と同じ制服がちらほらと同じ方向を目指して急いでいるのが入っていた。
今日も間に合いそうだな、と思いながら、学校へ繋がる道を急いだ。
<続き>