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| 第3話 午後のひととき:Dパート | 目次 |
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「祐一っ!お風呂空いたよっ!」
「わ、わーーっ!まだだよっ!」
「空いたよ〜っ!」
「まぁだぁ〜っ!」
脱衣所には楽しそうな名雪の声と必死で叫ぶあゆの声がこだましていた。
「名雪、近所迷惑でしょ?」
何事かと秋子が止めに入る。
中にはパジャマに着替え終わった名雪と、上半身の着替えを半分済ませただけで、ボタンと必死に格闘しているあゆの姿があった。
「あら?これ、どうしたの?」
「祐一君のお下がり、もらったんだよ…。」
あゆはなかなかしまらないボタンに苦しめられながら答えた。それも無理はない話で、祐一のお下がりは当然男性用なので、ボタンのはめ方が女性用とは逆なのだ。
「ふぅん、ボタンも逆だし、ちょっとぴったり過ぎるわね。今度直してあげるから、今日は名雪のを着てなさい。」
秋子は名雪の頭をちょん、とつついてたしなめると、名雪の予備のパジャマを持ってこさせた。
「少し大きめだけど、今日はもう寝るだけだからいいわよね?」
どちらかというとすらっとした体格の名雪と、どこから見ても小さいあゆとでは、当然ながら服のサイズもかなり違う。あゆの肩はパジャマの襟の方に近いくらいだ。一番首に近い飾りボタンまで絞めてようやく形を整え、袖口を二度三度と折り畳んで格好を付ける。
「これでいいわね。」
普通のパジャマなのにワンピースを着ているような姿になってしまったが、それはそれで可愛らしいと言える。
「今度こそ本当に空いたよ〜。」
名雪はぴょんぴょん、と階段を駆け上り、あゆはパジャマの裾を気にしながらそれについていく。秋子はそれを見送りながら、いつしか、この光景がいつまでも続くように、と願っていた。
心底冷え込む北国の冬の夜は、いつの時代も流浪の民の大敵だ。
歯の根も合わぬほど震えている少女にとって不幸中の幸いだったのは、この寒さのために”同業者”も”粗暴な輩”も姿を見せなかったことだ。だが、刻一刻と確実に体温を奪っていく冬将軍から身を守る術を持たない彼女にとっては、それすら些細な問題だったかもしれない。
(あぅ〜〜…寒ぅぃぃぃ…。)
それを口に出したところで、体温は下がりこそすれ上がりはしないので彼女は心の中で強く思うだけに留めた。
おかしい。
これまでの一生で、こんなに寒かった経験はなかったはずだ。
それもこれも得体の知れぬ何者かが自分を雪の中に放り出してしまったからだ。
(ぅぅ…恨みが募るばかりよぉ…。)
顔も知らぬ、名も知らぬ仇に対して強い復讐心を燃やすことで、辛うじて意識を保つ。
でも…、と彼女は思い立つ。
敵を討ったところで、その後帰るべき場所は、どこなのだろう?
………。
不安が強大な力をつける。
恐る恐る財布の中のシールを覗き見る。
怯えたような目でこちらを窺う、見覚えの無い服装をした、見覚えのない、少女の姿…。
そう、彼女は気づいてしまった。
自分の記憶がないことに。
見覚えのない場所から、見覚えのない場所へと放浪した一日………。
通り過ぎる街並み、行き交う人々、その全てがまるで初めての経験で、新鮮で、そして、……恐ろしかった。
決定的だったのは、ガラスに映った自分の姿に驚いたこと……。
自分の名前はおろか、顔さえも覚えていないとは。
こうなってくると、憎いはずの仇だけが自分の記憶を取り戻す縁(よすが)だ。
仇を倒すことで晴れる心が、覆い隠している自分の記憶を呼び起こしてはくれないだろうか?
(うぅん。そこまでじゃなくてもいい。)
少女の目に涙が浮かんだ。
仇を見つけたとき、その仇が
「生きていたか、○○!」
と、自分の名前を呼んでくれるだけでも、いい……。
自分が何者なのかも思い出せないまま、ここで凍死してしまうよりは、その方がどれほどましか…。
がこん。
ぴこぴこぴこぴこ……。
少女の耳に突然無機質な電子音が響いてきた。
「あーっ!外れたっ!」
「…あんた、当たると思ってたの?」
剽軽な男の声と、冷静な女の声が耳を打つ。
「いや、当たれば美坂に奢る分が浮く。」
がこん。
ぴこぴこぴこ…。
「北川君。あたしはまだ冬休みの課題写させてあげるなんて言ってないわよ。」
ため息とともに女の声が離れていく。
「そんなぁ…お願いしますよ。美坂大魔人…。」
「…怒らせてるわよ、それ…。」
二つの声が小さくなったのを確認して、少女はそっとその場を離れた。
まじまじとながめる。
(何もしないよりは、まし…。)
適当に財布から硬貨を取り出し、まとめて突っ込む。
がちゃがちゃがちゃ、とすぐに数枚が戻ってきたが、それに変化は訪れた。
(さっき袋に入っていたのと同じのがいい…。)
あれなら長く格闘したあげくようやく開けることが出来た。
だが、不運にも同じものは見あたらない。
ままよ、と適当にそこら中を叩いてみる。
がこん。
ぴこぴこぴこ…ぴぴぴ!
どれかが命中したようだ。
少女は大喜びしながら、使えなかった硬貨をまた財布に戻した。さぁ、目的物を取ろうとして、ふと大事なことに気がつく。
……?
缶の取り方が判らない……。
仕方なくもう一度叩いてみる。ここまできて、目の前にあるものが、取れないなんて……。
かぽん、がこん!みしっ!
激しい音がして取り出し口の開き、缶が飛び出してきた。なるほど。一旦引けばいいのか…。開き方が判ったので残っていたもう一つも取り上げる。
(暖かい…。)
嬉々としながら頬擦りする。
(それに、甘ぁいぃ〜…。)
暖かい缶紅茶とともに、冬の定番、お汁粉を手に入れた少女は、ようやく明日への希望を見出していた。
風呂上がりでまだ火照る体をベッドにねじ込むと、それほど寒さは感じない。
新しい部屋に、新しい家具。
この際部屋にテレビが欲しいところだが、さすがにそんなわがままは言えない。
(いつかバイトでもして買うか…。)
祐一はそんなことを考えながら、天井を見上げた。
まだここでの生活に馴染んでいるとは言い難いが、それでも少しずつ違和感は薄らいでいた。それもこれも名雪と秋子の母娘の性格、それに、あゆの存在が大きい。一緒に住むようになってたった一日ほどしか経っていない自分を、早くも水瀬家の一員のように感じさせているのは、より”他人”の度合いの高いあゆがいるからだ。
だが、そんな居心地の良い生活も終わる。
明日から知らない学校で、知らない教室で、新学期が始まる。
名雪や秋子、あゆと楽しく過ごしたことで忘れていたそこはかとない不安感が再び押し寄せてくる。
(まだ早いけど、今日はもう寝るか…。)
そしてふと、目覚まし時計がないことを思い出した。
これまでは学校が近かったことと、母親が起こしに来るまで粘れば済んだこととで目覚まし時計を持つ習慣がなかった。
だが、秋子に起こしてもらうのも気が引けるし、名雪に起こしに来い、と言えるほど度胸もない。
第一、万が一従姉妹と一緒に住んでいて、あまつさえ毎朝起こしてもらっているなどと知れた日には祐一の高校生活は身の毛もよだつものになるに違いない。
祐一はぶるっと一つ武者震いをする…気分で部屋を出た。
「わーっ!名雪さんっ!危ないよっ!!」
……廊下は既に戦場だった。
瞼を擦りながら、まるでまだ夢の中のようにふらふらと揺れながら歩く名雪を、必死で部屋に引き戻そうとしているあゆがいた。
「……何してるんだ?」
「あっ!祐一君っ、ちょうどいいところに…。」
あゆが名雪に引きずられながら祐一に声を掛ける。
「…おはようございます〜。」
名雪は祐一に挨拶をした。
「まだ夜だって…。」
祐一が突っ込んだのと名雪の攻撃が加えられたのとはほぼ同時だった。
ごんっ!
…痛い…。
「…おはようございます…。」
なるほど、それは朝の挨拶のつもりだったのかも知れないが、攻撃を受けた側にとっては頭突き以外のなにものでもなかった。無防備だった祐一の頭には、いきなりの名雪の頭突きでこぶが出来ていた。
「…うにゅ…痛い…。」
謎の言葉を残してふらふらと廊下を歩き、そして、突然ぱたっと壁にもたれかかる。名雪の背中にくっついていたあゆが壁の間に挟まれる
「うぐぅ…苦しいよぉ…。」
…寝ぼけてるな、完全に…。
あゆを救出するためにも、一旦起こした方がいい。祐一は痛む頭を押さえながら、名雪を起こすことにした。
「起きろっ!」
「うにゅ…あれ?…祐一?」
壁の間からあゆが這い出てくる。
「ぷぐぅ…。」
新しい言葉を覚えたようだった。
「やっと目が覚めたか。」
「わたし…寝てた…。」
そう言いながら、また新たな眠りに落ちそうになる名雪をすんでの所で呼び戻す。
「どうでもいいが、寝ながら歩くな。階段とか危ないぞ。」
「うん、大丈夫…慣れてるから…。」
大丈夫の理由が違うような気もするが…。
「それに、あゆが潰れる。」
「え…?あ、あゆちゃん?」
ようやく足下で丸くなっているあゆに気がついた名雪は、詳細を聞いてぺこぺこと謝った。ついでに頭突きの件も謝って欲しいところだったが、油断していた自分も悪い、と我慢する。
それに、祐一には大事な交渉が待っていた。
「名雪、悪いんだけど目覚まし時計余ってたら貸してくれないか?」
「うん、いいよ…。何個あったらいいかな?」
?
祐一は一瞬名雪はまだ寝ぼけているのか、と思った。
だが、目の前の名雪はにこにこして目が極限まで細くなっているものの、眠っているわけでは無さそうだった。
「…1個でいい。」
「うん。ちょっと待ってて。」
祐一は名雪が部屋の中に入ったのを確認して、あゆに聞いてみることにした。
「名雪の部屋、時計たくさんあるのか?」
「暗くなると、部屋中から”かちかち”って聞こえてきて怖いくらいだよ…。」
あゆが涙目で訴えてきた。
(そんなにあるのか?)
祐一が不審に思っていると、”開けて〜”という声が扉の向こうから聞こえてきた。
あゆに扉を開いてもらうと、そこには自分で扉を開けることが出来ないほど大量の目覚まし時計を抱えた名雪の姿があった。
「どれでも好きなの貸してあげるよ。」
「……これ全部目覚ましなのか?」
好きなの、とはいうものの、上から選ばなければバランスを崩して散乱してしまいそうだ。貸してくれとは言ったものの、祐一は戸惑いを隠しもせずにしげしげと眺めた。
あゆが背伸びをする。
(本当はもっとたくさんあるんだよ。)
うげ…、と祐一は少しだけあゆに同情した。
一つ一つの音は小さくても、これだけ集まれば気にならない方がおかしい。
「祐一、重いんだけど…早く決めてくれない?」
祐一の気持ちを知ってか知らずか、名雪は抱えた時計の山の向こうに笑顔を隠した。
「とりあえず、時間通りに起こしてくれるのならどれでもいいんだけどな…?」
「わたしが選んでいい?」
焦れたのか、名雪がそう提案する。
もとより、機能性重視の祐一に異存はない。
何しろ、様々な形をした色とりどりの目覚ましの中には、どう考えても目覚ましに見えない物もある。
持ち主の名雪に選んでもらった方が無難というものだ。
「そうだな、名雪が選んでくれ。」
「だったら一番上の、白い目覚まし時計。」
祐一は、これか?と、確認した上で、名雪の視線の先にある白い目覚まし時計をひとつ掴み取った。
「しばらく借りてていいか?」
「うん、全然おっけーだよ。」
残りの目覚ましを抱えたまま、窮屈そうに頷く。
「わたし達、そろそろ寝るね。」
名雪はしっかりあゆを数に入れていた。
あゆは助けを求めるように祐一を見たが、残念ながら祐一にはこの家の中での決定権はない。
今晩だけ何とか我慢しろ、と声に出さずに言う。
「じゃあ。」
「…祐一。」
部屋に戻ろうとする祐一を、名雪が遠慮がちに引き留めた。
「どうした?」
「夜は、おやすみなさい、だよ。」
言って、窮屈そうにぺこっと頭をさげる。目覚ましが一つ落っこちて、ちりん、と鳴った。
「あ、あゆちゃん、拾ってもらえる?」
「おやすみ、あゆ、名雪。」
関わると長くなりそうだ、と思った祐一はさっと自分の部屋の扉を閉めた。
程なくしてちりんちりん、と次々に時計が落ちる音がした。
(名雪は挨拶の時はしっかり頭下げるからな…。)
あゆには悪いことをしたが、これも名雪とうまくつきあっていくための修行だと思って諦めてもらおう、などと都合のいいことを考える。
名雪に借りた目覚ましを枕元に設置する。
何時頃起きたらいいのか判らないが、とりあえず、これまでよりも1時間ほど早め、7時にセットする。
(それにしても、夜は特に冷え込むな…。)
夜の空気は、家の中でも容赦なかった。
風呂上がりの余熱で折角暖まっていた布団も、時計を借りていたちょっとの間にすっかり冷え切っていた。
ぐいっと布団を引っ張り込んで、熱を逃がさないようにきつく身体に巻き付ける。
(寝るか…。)
目を閉じると名雪の頭突きを受けた部分がじんじんと痛んだ。
まぁ、このくらいは大したことはない。明日になれば治まるだろう。
新しい街での、新しい生活…。
そんな冬の1日が、ゆっくりと暮れていく…。
(…やっぱり寒い。)
祐一は夢の中でそんな泣き言を言っていた。
<続き>