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| 第2話 再会と邂逅:Bパート | 目次 |
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「………あら?」
二人して玄関で固まっていると、背中から不意に声がかかった。
「名雪、まだいたの?」
水瀬秋子(みなせあきこ)はリビングの扉を開けて、いるはずのない、この時間にいてはいけない愛娘の姿に驚いたように頬に手を当てた。名雪と同様に腰までありそうな長い髪を、大きな一つの三つ編みに束ねている。高校生の名雪の母だからどう若く考えても30は超えているはずだが、桃色のカーディガンがよく似合っていた。
「もうこんな時間だけど、今から間に合うの?」
「100メートルを7秒で走れば間に合うよ。」
それは世界新だ。
だが、秋子は平然としていた。
「がんばってね。」
「うん。」
この二人を見ていると、本当に走れてしまうのだろうか、と思ってしまう。
「がんばっても無理だって………。」
祐一はその空気に逆らうように混ぜ返した。
「おはようございます、祐一さん。」
秋子が突然祐一に向き直り、朝の挨拶をしてきた。
その一言で、祐一が混ぜ返したはずの空気は、幻の新記録とともに雲散霧消してしまった。
「お、おはようございます……。」
「祐一さん、いつの間に起きていたんですか?」
そう聞いたからと言って秋子が驚いている、と言うようには見えない。
全くのマイペースだ。
しかし……。
(これは答えにくい………。廊下で静かに騒げなかった名雪に起こされました、なんて言えるか?)
祐一は短い思案の末、今起きたところです、と無難に答えた。
「朝ご飯、食べますよね?」
秋子は祐一にだけ話しかけた。
いつの間に起きた?と聞いた割にすぐに朝食の準備も出来る辺り、秋子の家事能力の高さが伺える。
「いただきます。」
祐一は即答した。
名雪とのやりとりで忘れていたが、確かに祐一の腹の虫は宿主に餌を要求していたはずだった。
「わたしの朝ご飯は?」
「もう少し早く起きたらね。」
情けない表情で自分の存在をアピールした名雪だったが、秋子は至極もっともな意見で却下した。
二人のやりとりは実に柔らかで、時間がないことが嘘のようだ。
「お腹ぺこぺこ………。」
名雪は悲しそうにそう言った。
ついさっきまでは確かにそんな様子は見せなかったのに……。
そう言いたげな祐一の視線を受けて、名雪は更に空腹感をアピールするためにお腹に両手を添えた。
「今日も昼過ぎには帰ってこられるんでしょ?だったら昼は少し遅めにするから、家族全員で食べましょう。」
秋子は達観したような口調でそう話した。
毎日同じことを言い、同じ答えが返ってくるのだ。
「うん………。」
名雪は困った顔のままで静かに頷いた。
「それで、もうこんな時間だけど大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないよ。えっと、行ってきます〜。」
既に諦めたらしい。
名雪はのろのろと玄関の扉を開けた。
その先に、足跡さえついていないまっさらの雪の絨毯が広がっていた。
「行ってらっしゃい、気をつけてね。」
「うんっ。」
名雪の後ろ姿を見送ったあと、秋子がぽつりと呟く。
「もう少し早く起きてくれると助かるんだけど………。」
「名雪って、朝弱いんですか?」
外気の影響を極力受けないように、玄関のある一線からぴくりとも動こうとしなかった祐一が声をかける。
「明日から、祐一さんも大変ですね………。」
秋子は明朝繰り広げられるであろう、ここ数年毎朝繰り返された光景を思って祐一に心から同情の視線を送った。
(繰り返された?)
秋子はふと何かが足りないことに気がついた。
”それじゃ、昼は少し遅めにするから…。”
”うん、それじゃわたしも少し早めにイチゴサンデーを食べるよ…。”
それが”繰り返されてきた”母娘の会話だったはずだ。
今日はあの子はイチゴサンデーのことを口にしただろうか?
(もしかしたら、今日は本当にお腹を空かせて帰ってくるかもしれないわね………。)
秋子は妙に嬉しくなった。
「祐一さん、朝ご飯の後、少しお時間よろしいですか?」
秋子は普段よりも少しだけ弾んだ声でそう申し出た。
(あれ?)
何の前触れもなく、月宮あゆに目覚めが訪れた。
(ボク、いつの間に眠っていたんだろう?)
眠った場所はおろか、眠ったことさえ覚えていない。
が、今は暖かいベッドにしっかり収まっている。
(よっぽど疲れたんだねっ。)
そう納得して跳ね起きた。
出かける準備は既に出来ている。
「急がなくっちゃ。」
何かに突き動かされるように……。
あゆは言いようのない焦りを感じていた。
「忘れ物は……ないよね?」
がらっと扉を開ける。
(うぐぅ……寒いよ……。)
再び戻ってきて手袋をはめる。
(今度こそ大丈夫。)
あゆは扉を開けて走り出した。
営業中、と申し訳程度に書かれた看板の前で、天野美汐(あまのみしお)は店内の様子を窺っていた。
どうやら店主はいるようだ。
彫像のように、ぴくりとも動かない。
眠っているようだった。
無言で扉を開ける。
「………これ。」
持参した鞄の中から、数冊の古ぼけた本と料金の入った袋を取りだしてカウンターの上に置く。
「……もういいのか?」
寝ていると思っていた相手から不意に声をかけられたが、美汐は少しも動じることなく頷いた。
「まだだけど……明日から学校が始まるから……。」
美汐の声に珍しく感情がこもる。
心底残念そうだった。
「また、来ます。」
そう言って美汐は店を後にした。
寂れた通りに戻る。
美汐以外の人間は一人もいない。
客はおろか通行人さえ滅多に通らないこの通りに、更に小さく目立たない、”貸本屋”の看板。
漫画喫茶やインターネットカフェならともかく、今のこの時勢に貸本屋という職業を、それも、一冊当たり数円で営んで生活が成り立つものなのだろうか?
「まあ、私の知ったことではないけど……。」
美汐はそう呟いて、明日から始まる、いや、繰り返される、退屈な日々を思った。
ふと……。
美汐の感覚のどこかに、懐かしい薫りが触れた。
辺りを見回してみる。
ここに来るときは確かになかったものがある。
寂れたこの場にさえ似つかわしくない、ぼろ布に包まれた固まり………。
……この子は私のところに来た子ではないのよ……。
美汐は努めて平静を装ってその場を通り過ぎた。
コンビニに立ち寄り、飲み物とパンを買う。
(……どうせ退屈するに決まっているものね。)
美汐は再び貸本屋に足を向けた。
心持ち速めに刻まれた歩幅は、ぼろ布がまだその場にあるのを見つけたときに、少し安心したように緩められた。
「あら……落としてしまったわ。」
美汐はぼろ布の付近でわざと買ったものを取り落とした。
「仕方ないわね。ここに捨てていきましょう。」
美汐は財布を詰めた袋ごとぼろ布の中にそっと差し入れた。
「誰にも見られてないわよねぇ?」
わざとらしくそう言いながら、美汐は貸本屋に入っていった。
先ほど返したのと同じ本を借りて出てきたとき、ぼろ布は影も形も見えなくなっていた。
(……どうせ退屈するに決まっているもの……。)
美汐は再び繰り返して、家路を急いだ。
ぎゅっとストールを身体にきつく巻き付ける。
気温は昨日よりは暖かいが、それでも屋外は充分すぎるほど寒い。
「それでは行って参ります〜。」
担当の看護婦に一言挨拶をしてから、美坂栞は当てもなくふらっと病院を後にした。
いや、正確にはそうでもない。
漠然とした当てはある。
目的を持って外に出ている。
だけど、心が虚ろなのは何故だろう?
病院の敷地を出て、一度空を見上げる。
(ドラマだと、きっとこの辺でCMになるんです〜。)
栞は虚ろな心を空虚な明るさで包み込んだ。
舞がどこからともなく集めてきた”患畜”達が集まると、佐祐理動物病院の営業開始である。
「九時過ぎちゃった…。」
その言葉に一瞬身を固くした佐祐理は、全てを聞き終えてようやく表情を和らげた。
舞が運んでくる動物達の多くは犬や猫だったが、時折信じられない生き物を連れ込んだりする。
舞が”く”で始まる言葉を発するたびに今でも背筋が寒くなるが、春先に冬眠開けの熊を連れてこようとした前科さえある。佐祐理が身を固くしたのはそのためだ。
今、舞が連れ込んだのは野生の狐を含めた10頭ほどの小動物だった。
「舞。今日もご苦労様。」
「……大漁。」
「あははーっ。食べるものじゃないよ〜。」
そんな会話をしながらも、佐祐理はてきぱきと治療を施していく。
治療といっても、添え木をしたり、包帯を巻いたりする程度の簡単なものだ。本格的な治療を施すことが出来る者はここにはいない…いや、いたが、今はいない…。
佐祐理はちらっと舞の顔を見た。
舞が肌身離さず持参している木剣は、もはやかつての煌めきを見せない。
佐祐理の視線を居心地が悪そうに避けた舞は次の患畜を保定した。
………?
舞は不思議そうに辺りを見回した。
狐がいない。
「……狐さん。」
「あれ?あ、ほんとだーっ?あははーっ。私、狐に化かされたの初めてだよ〜。」
前足に怪我をした狐を舞はここに運び込んだはずだった。そのことは佐祐理も確認していたし、実際、”今日は変わったお客さんもいますねー”と佐祐理が言ったのも覚えている。だが、その狐がいつの間にか姿を消している。周りには代わり映えのしない犬や猫しか見あたらない。
いつの間に出ていったのか?
舞は首を傾げながら、猫をしっかり抱いて佐祐理が猫の治療をするのを待っていた。
「祐一さんがいてくれて助かるわ。」
秋子は道すがらそう話した。
「あの……まだ、役に立ってませんので…。」
祐一は恐縮して答えた。
この会話が帰り道ならまだしも、二人はこれから商店街に向かうところである。名雪のお昼に少ししっかりしたものを作ってあげたいんだけど、荷物運びを手伝っていただけないかしら?という秋子の申し出に、祐一は二つ返事で飛びついた。
名雪には”か弱い帰宅部”などと自己紹介したが、こんな時でなければ自分の存在を正当化する場面が現れない、と祐一は考えたのだ。
「そうかしら?」
もう既に一つ、大きな仕事をやっていただきましたよ、と秋子は内心感謝しながら微笑んだ。
名雪の間食が無くなれば、朝の寝覚めも良くなってくるかもしれない。
なんだかんだ言っても年頃の女の子だ。
同年代の男の子と一緒に暮らす中で、間食まみれの生活態度を知られては大きな減点だろう。
名雪が自己主張したように、名雪は全くと言っていいほど太っていない。
だが、男性の視線を意識したときに、今よりも痩せたいと願うのは女性にほぼ共通のものなのだろうか?
いつの間にか商店街の入り口まで辿り着いていた。
「それでは祐一さん。私は買い物を済ませてきますので……。」
秋子はやんわりと祐一にその場に止まるよう指示した。
「えーと、俺は……。」
運ばなくても大丈夫ですか?と聞こうとしたときには秋子の姿はなかった。
(じゃ、何のためについてきたんだ?)
祐一は内心首を傾げる。
秋子の姿を求めて、背伸びしながら見回していると、時折ちらっとその姿を目にすることができた。
かと思うと、予想外のところから現れてきたりする。
その手に買ったものが提げられていないことから判断して、どうやら、複数の店で値段と品物を見定めながら買い物をするらしい。無為にこれについて歩いていては大変だ。
祐一は諦めてその場で待つことにした。
「ありがとうございましたぁ。」
ほくほく顔の主人の声が栞を見送った。
それもそのはず。
彼女が買い物袋で前が見えなくなるほど大量にものを買い込んでくれたからだ。
買ったものは雑多なものばかり。
雑誌や女の子に必要な物全般、数種類のスナック菓子、スケッチブックに色鉛筆、画鋲、工作用ナイフ、のり、はさみ、折り紙………。
だが、栞の表情はどこか暗い。
暗いと言うよりも、表情が、ない。
何かに導かれるように、ふらふらと帰途についた。
(本当に必要な物は、一つだけ………。)
商店街の明るい音楽が耳に入ってくると、栞は急に苛立たしくなった。
(ドラマでは…ドラマではここは悲しい曲が流れなくちゃ行けないんですぅ〜!!)
きっとアーケードに設置されたスピーカーを睨み付ける。
そんな厳しい栞の視線の中に、無粋にもいちゃつくカップルの姿が割り込んでくる。
「ねぇ、今度の週末、いいでしょ?」
「もっと暖かくなってからにしろよ〜。」
スキーしていれば暖かくなるって……。
声が遠のいていく。
(……暖かくなるまで……待てない人だっているんです…。)
無神経な言葉に打ちのめされた栞は、再び俯いて、とぼとぼと歩き始めた。
<続き>