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………。
……。
…。
ことことこと…。
…ことことこと…。
「うさぎさん…うさぎさん…。」
幼い日の川澄舞(かわすみまい)は自作の歌を歌っていた。
ことことこと…。
ストーブにのせられたやかんが、一緒に拍子を取ってくれた。
「♪うさぎさん…うさぎさん…。」
がっちりと握りしめた赤色のクレヨンが小さなかけらになる頃、尻尾の長いうさぎの絵は完成した。
「できた…うさぎさん。」
舞は母親にノートを見せた。
「上手にできたわねぇ。」
舞の母親はそう言って笑う。その笑顔には全く力がないが、その笑顔しか知らない舞にはそれが母の努力の賜であることすら知らない。
(おかあさんがわらってくれる。)
(そうすると、あたしはうれしい。)
舞は母の笑顔に呼応して笑顔を作った。
母がずっと病院のベッドで寝ていたため、舞は母の身体が心配だった。母の笑顔は、母が元気になるような気がして嬉しかった。
「でも、うさぎさんの尻尾は丸いのよ。猫さんのように長くないの」
「ふぇ…そうなの?」
「見に行けたらいいのにね…。」
「…動物えん?」
「そう。動物園。動物がたくさん居るところ。」
「…うさぎさん、いる?」
「居るわよ。ゴリラさんも、ライオンさんも。」
「…ゴリラさんも?」
「そうよ。うぉーッ、ゴリラさんっ。」
母はそう言って胸を叩いて見せた。その途端に、激しく咳き込む。
「わ、おかあさん…。」
「あはは…大丈夫よ。ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたい。」
「うん…。」
「おかあさん、ゴリラさんみたいにつよくないんだから…。」
「大丈夫。そのうち強くなるからね。」
正確には胸を叩いたことよりも身体を伸ばしたことが原因なのだがそれは話さなかった。
「そうしたら、舞を動物園に連れていってあげるから。」
「ほんとぅ?」
「本当よ。ずっと約束してたもんね。」
母はそう言って舞の頭を撫でた。
(おかあさんは、あたしをうんだから、からだをわるくしてしまったんだとおもう。)
舞はそんな母をじっと見ながら考える。舞が覚えている母はいつも家の布団の中にいた。
「ごめんね、おかあさん。」
ある日舞はそう言って泣いた。
「あたしが生まれてきたから、おかあさんが…。」
「そんなこと無いのよ。」
母は身体を起こして舞を抱きしめた。
「たとえそうだとしても、それはあなたのせいじゃないのよ。」
「………。」
「それが私達の運命なのよ。」
………。
はっと舞は目の前の作業に気持ちを戻した。
急がないと…。
大急ぎで雪を集めては丸め、身体を作っていく。
「あ、そうだった。尻尾は丸いんだった…。」
母が一度だけ作ってくれたお手本を思い出しながら、もう一つの雪玉を尻尾に見立てて隣に置く。
身体と尻尾の大きさが不釣り合いの雪うさぎの原型が一つ完成する。
後は、お耳とお目め…。
舞は辺りを見回した。
ちょうどいい具合に、垂れ下がっている枝がある。
舞はその枝に向かって走り出した。
「ただいま〜。」
名雪が玄関の扉を開けると、空腹を誘う美味しい料理の匂いが流れ出てきた。
「お…お邪魔します…。」
祐一は柄にもなく小さくなってそう言った。
「おかえりなさい。遅かったわね?」
玄関先まで秋子が迎えに出てくる。
「あ、秋子叔母さん、お世話になります。」
祐一は軽く頭を下げた。
その行く手を遮るように、名雪がじっと祐一を見ている。
「祐一…。」
さ、寒いんですけど…。
そう思っている祐一の目の前で、名雪がふっと笑いかける。
「ダメだよ、祐一。帰ってきたらちゃんと”ただいま”だよ。」
名雪に賛成するように、秋子もじっと祐一の答えを待っている。
(あぁ、そうか…。)
(俺は…。)
「…ただいま、秋子さん。」
「おかえりなさい、祐一さん。」
(俺は、帰ってきたんだなぁ……。)
7年の、空白を越えて…。
祐一は7年分の想いをこめて玄関に一歩を踏み入れた。
(で、でかい…?)
玄関口に設けられた吹き抜けは開放感があり、家を大きく見せるものだがそれだけではない、物理的な広さもあるように感じる。
都会から出てきた祐一にはこの辺りの家の敷地は全て大きく見えていたが、案内された名雪の家はそれに比べても2,3割は大きいだろう。
(普通は自分が大きくなるから記憶よりも小さく感じるって聞くがなぁ…?)
増築でもしただろうか?
玄関先で呆けている祐一の姿をちらっと見た秋子は
「祐一さん、少しだけ待ってもらえます?」
と言った。名雪もちょっとだけそのままね、と言い含めて家の中に入っていく。
祐一はもう一度天井を見上げた。
「なぁ、名雪。この家、俺が来てた頃から増築か何かしたか?」
7年ぶりのはずの家には照明から間取りに至るまで全く覚えがないばかりか、玄関の靴箱にさえまるで新築したかのように傷一つない。
まるで難しい数学の問題でも出されたかのように眉をへの字にして、腰まであるかと思えるような長い髪にまとわりついた雪を払い落としていた名雪だったが、結果的には
「…うーん…。わたし、覚えてないよ〜。」
という脳天気な声が返ってきた。
家の住人が覚えていないことを他人の祐一が覚えているはずがない。
などと妙な納得の仕方をしていたら、秋子がバスタオルを二つ携えて戻ってきた。
「祐一さん、名雪。これで雪を払ってから来てくださいね。それから、名雪は、先に着替えてきなさい。制服は今のうちに洗っておくから。」
なるほど、それも雪国のルールだった。
結露の恐ろしさはある程度北まで来なければ実感できないだろう。うっかりしていると玄関まで氷漬けになって出られなくなる。
「最近はそこまでひどくないですけどね。」
祐一の顔を見て考えを読みとったのか、秋子がにっこり笑いかける。
名雪が私服に着替えてくる頃には、遅めの昼食はすっかり早めの夕食に化けてしまった。
「それにしても遅かったわね。」
「祐一が道を間違えて、ちょっと遠回りになっちゃんたんだよ。」
名雪が椅子に座りながらそう答える。
「ちょ、ちょっと待て。3時間の遅れの2/3は名雪の遅刻…。」
祐一はそこで少し口ごもった。
いくら幼馴染みの従姉妹同士とはいえ、居候初日にミスをあばいてしまっていいものだろうか?
「うん。そうだね。」
手遅れだった。
「駅に何時に着いたの?」
「3時頃だったよ。」
まぁ、と秋子は頬に手を当てた。だが、その表情には驚いた、という意思表示が欠片も見あたらない。
「祐一さんも、電話していただければ良かったのに…。」
そうしたら、私が迎えに行きましたよ、と目を細める。
「いや、電話番号が間違っていたのか、ずっと話し中だったんですよ…。」
祐一は胸ポケットから少し湿ったメモ用紙を取り出してテーブルの上に置いた。
「…あってるよ〜?」
「あってますね。」
母娘二人は額を寄せ合うようにして番号を確認した後、微妙に合わないコンビネーションで答えた。
「あれ?じゃあ、俺が押し間違えたかな?」
「そういえば、ずっと使っていましたわ。」
うぇ?、と目を丸くする祐一に、秋子は、祐一さんのお母様が心配されて…、と事情を説明する。
祐一はこの瞬間、自分が父親に似ていること、自分とこの母娘には確かに血の繋がりがあること、そしてこの先、自分が決して母の因果から逃れられないことを悟っていた。
「…今日は帰る。」
珍しく二言を発した親友を、倉田佐祐理(くらたさゆり)は信じられないものを見るような目で見た。
「どうしたの?舞?今日は来るのも遅かったし…。」
佐祐理の腕に抱かれて眠る子犬の後ろ足には包帯が巻かれている。丁寧に巻かれた真っ白なそれとそのほぼ中央に滲む赤色が好対照だ。
「…別に…。」
川澄舞は再び普段の舞に戻った。
「ちょっと…。」
そして再び普段とは違う舞を見せる。
「あははー。舞が迷ってるよー。」
何がそんなに嬉しいのか、佐祐理ははじけるように破顔すると親友の隣に自分の身体を運んだ。
「舞、明日は早く来られるの?」
「…。」
こ…く…。
充分すぎるほど時間をかけて首が縦に振られる。
「あははーっ。それじゃ、この子の脚、一緒に看ようねっ。」
こく。
舞は今度は簡単に頷くと、想いを振り切るように一歩を踏み出した。
「…だけど…。」
「?」
舞はゆっくりと振り向いた。
「…明日は、看てあげられないかもしれない…。」
犬さん、と最後に付け加えて、舞は外に出ていった。
佐祐理は呆けたようにその背中を見送る。
「…舞が…いっぱい喋った…。」
親友が何かにそわそわしていることが妙に嬉しくなって、佐祐理は抱いていた子犬に頬をすり寄せた。
♪ららんららんららんら…。
メロディーが流れて静寂が破られる。
美坂香里(みさかかおり)は表情を変えずにその電話を受け取った。
「美坂さんのお宅ですか?こちら倉田総合病院の者ですが…。」
「間違い電話です。」
香里は無表情のままそう言って電話を切った。
ほどなくして再び電話が鳴る。
「あの、倉田病院の…。」
「間違い電話です。」
何度間違えば気が済むのだろう?
香里はさすがにため息をついた。
また新米看護婦が入ったに違いない。
新任の教育はしっかりやってもらいたい。あそこの病院に入院している患者と同じ名字らしいが、うちに連絡を入れられたところで全く無意味だ。もう何度もそう言っているのに、新任が来るたびに同じことが繰り返される。今度苦情を言いに行こう…。
三度電話が鳴った。
「あの…。」
「だから、間違い電話です。美坂(みさか)っていう珍しい名字だからって、安易に電話をよこさないでください。うちには病院に通っている者も入院している者もおりません。」
香里は相手が名乗る前に全ての用件を言い放った。
「…そ、そうですか〜…。」
氷の刃が香里の心臓を貫いた。
身体が硬直して動かない。
力無いため息を最後に、電話が切れた。
…。
宿題、しないとね。
香里は平然と辞典を開いた。
…?
簡単な単語のはずなのに、どうしても見つけることが出来ない。
「…嫌ねぇ。これ、和英辞典じゃない…。」
日本語の見出し部分がローマ字で書かれた和英辞典は、なかなかケースに収まってくれなかった。
「ベッドはこれで良かったかしら?」
秋子は祐一を部屋に誘導すると、心配そうに問いかけた。
「いいも何も…そこまでしてくれなくてもよかったのに…。」
そうはいかないわ、と穏やかに秋子は微笑む。
「祐一さんは家族の一員だから。」
ことのほか嬉しそうにそう言った後で、”もし足がはみ出るようだったら交換してもらいますから”と付け加え、部屋を出ていく。
(…って、俺はそんなにでかくないっ!)
たっぷりと場所をとっているベッドから足がはみ出るためには少なくとも2メートル半は必要だ。
(それにしても…。)
ベッドだけではない。勉強机、本棚、スタンドなど、一般的な高校生の生活に必要な物を全て祐一ののために用意してくれたらしい。
(ま、確実に勉強机は使わないだろうがな…。)
そう笑いながら、一方で、折角準備してもらったんだから勉強してみるかな?という気分になっている自分がいるのが不思議だ。
こんな具合にやんわりと誘導されたら、苦手なものなぞ無くなるかもしれない。
「ふわ…。」
急に眠くなってきた。
風呂上がりにベッドを見せられて寝ない者があろうか?
「いやいかんっ!寝たら死ぬぞっ!」
何故それを駅で思いつかなかったか、と馬鹿なことに反省しながらベッドに潜り込む。
しかし、7年前までは毎年夏と冬には遊びに来ていたはずなのに………。
(全く覚えがないな。)
(まぁ、7年も前のことを正確に覚えているはずもないし………。)
祐一は記憶の海に飛び込んで、波に流されるまま過去に遡った。
(7年前って言うと…10歳か…小学校4年生くらいだな…。)
同年代に比べればかなりませていた。
もっと小さい頃に、3〜4年上の先輩にラブレターなんぞを書いた記憶さえあるぞ、と偉そうにふんぞり返る。
それに、運動会ではいつも母親が来ていて、恥ずかしい思いをさせられた記憶がある。
まぁ、来てもらえない家だってあったんだから、今思えば幸せだったんだろう。
(……って、あれ?)
結構覚えてるじゃないか?
どうしてこの街のことはさっぱり覚えていないんだろう?
途端に記憶の海に高波が押し寄せて目の前が真っ暗になっていく。
意識が遠くなる……。
(だから寝たら死ぬって……。)
いつかその言葉を口にしたような………。
だが、意識は意志とは裏腹に次第に薄ぼんやりとしてきて、祐一はいつしか眠りについていた。
<続き>