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ひゅるる〜……。
ありがちな音を立てて風が吹き抜けてきた。
ぶるっと身震いして辺りを見回す。
(…って、ここ…どこよ?)
意味もなく前へ前へと身体を運んでいた足を止めると、冬の寒さが身体の奥底まで入り込んできた。
改めて周りを見回すと、どうやら自分は寂れたところから街に向かって進んでいたようである。
街の灯りが降りしきる雪に霞んでぼぉっと暖かい雰囲気を醸し出している。
それはいいとして……。
(あたし、何でこんなとこにいるの?)
何か重要な使命があったような……?
(何だっけ?)
思い出せない。
急がなければならないことだったはずだ。
でなければこんな雪の中を必死に歩いてはいないだろう。
ばりばりばりばりばりっ!
「ひゃあっ!」
突然の大きな音に、思わず頭を抱えてその場にうずくまった。
(な、何?今の…?)
しばらくそうしていたが、それっきり音がする様子もない。
(…なんか冷たい…?)
顔を積もった雪の中に埋めていたが、それで自然に暖まるはずもなく、確実に体温が下がっていく。
(ちょっと様子を見てみる?)
自分に言い聞かせ、恐る恐る目を開けて辺りを確認する。
その視線の先に、音の主がいた。いや、あった。
ぱたぱたぱたっ…。
風に煽られて剥がれ落ちた広告板の中から薄手の防水布がはみ出し、今度はそれが音の主を引き継いでいるようだ。
(あれ、使ってみよっ!)
素早く走り寄って……と、イメージするが、なかなか前に進まない。
「あぅ〜っ!なんでよっ!?」
雪の中を走るのは得意だったような気がするのに…。
ようやくのことで広告板のところにたどり着くと、防水布を剥ぎ取る。
「んっ。暖かい〜♪。」
さて……。
あれ?
(やっぱり、なんだか思い出せないなぁ…。)
冷静に考えてみよう。
自分はこの雪の中一人で放り出されている。
何か重大なことを伝えるつもりでいた。
…誰に?
(んぁ???)
それも判らない。
と、とりあえず、目的地に行ってみれば何か思い出すかもしれない。
防水布を身に纏って再び街に向けて歩き出す。
水を遮る分厚い布地は風も通さず、体温も逃がさないためさっきより遙かに暖かい。体を動かした熱も逃げない。数分歩いているとようやく人心地着いてきた。
余裕が出てきて、ふと思いついたことがある。
(多分、怒ることだわ。)
本来の目的を忘れてしまうほど我を忘れることなんて滅多にない。
きっと怒りのあまり忘れたに違いない。
うん、きっとそうだ。
(そう考えれば納得がいくわ。)
ぽんっ、と手を叩く。
足を止めて考えを整理してみる。
何か怖いことをされて雪の中に放り出された。
それに対して文句を言おうと思って追いかけている。
または、”復讐”してやらなければならない。
……?
微妙に違うような気はするが、筋は通っている。
(う〜。復習は大事なんだから〜。)
それも微妙に字が違うのだが意味はあっている。
(覚えてなさいよ〜……。)
だが、誰に…?
……。
まぁ、いい。
全ては街に着いてから思い出せばいい。
今はきっと怒りで考えがまとまらないのだ。
そう考え直し、再びとぼとぼと街の灯りを目指して歩み始めた。
「うぇ…。」
(人がいっぱいいるぅ……。)
ここに来れば必ず会える。
そう信じていたが、その自信が少し揺らぐ。
(でも、絶対大丈夫だよ。)
(絶対絶対大丈夫だよっ!)
(だって、約束したんだもん。)
月宮(つきみや)あゆは両手を胸の前でぐっと握りしめた。
商店街の真ん中で一人気合いを入れている少女の存在は多少不自然なものがあるが、人の流れの速さからは別段それを気にとめた人が居る様子はない。むしろあゆが背負っているリュックの、ひらひらと舞う白い羽に人の目がいっているようだ。
あゆはいつもしているように、色違いになっている歩道のタイルのうち、白い方だけを踏むようにしてぴょこぴょこと移動した。
(ふぇ?ボク、上手になってるよ〜。)
以前は苦労していたはずの場所を軽々とクリアしたことに大きな満足を感じる。が、そのことが油断を産んだのか、あゆが気がついたときにはあゆの前方に白いタイルはもう無くなっていた。
あゆの進んできた筋の白タイルは、歩道に陣取った屋台によってすっぽりと隠されている。
(うぐぅ…さっき飛んだところまで戻らなくちゃ行けないよ…。)
その場でくるりと身体をひねる。
が、ぱっと見た感じ、分岐点までは結構ありそうだ。
(うぐぅ…めんどくさいよ…。)
あゆはその場に立ち止まってくるくると頭を振った。
?
くひくひ。
何かいい匂いがする。
あゆは鼻をひくひくさせて匂いのもとを求めた。
それはすぐに見つかった。
というより、視界を思いっきり遮っていた。
赤を基調にした魅惑的な看板には「大判焼」と「たい焼き」の文字が白く染め抜かれている。屋台の周りには同じく赤字に白の「大判焼」の文字…。
「お、お嬢ちゃん、可愛いねぇ。どうだい、たい焼き食べないか?」
人の良さそうな屋台の主人が、屋台の前で足を止めたあゆを見かけて声をかける。
「ほぇ?」
言われてみれば、お腹が空いたような気もする。
それ以上に、あゆの記憶を刺激する、”たい焼き”という単語……。
”約束する。”
”俺はあゆのことを忘れないし、絶対にこの街に帰ってくる。”
”その時はまた、一緒にたい焼き食べような。”
”ちなみに、最後のたい焼きはサービスだ。”
記憶の中で、”彼”が確かにそう約束していた。
(さーびす……だから、いつ食べても、いいはず……だよね?……祐一君。)
「うんっ!食べるよっ!」
あゆは満面の笑顔で答えた。
「おお。元気だなぁ。おじちゃんはそういう元気な子が大好きだよ。で、何個だぃ?」
「うーん…。」
祐一君と半分だから、4つ…、ううん…その前に、ボクが一つ食べたいから…。
指を使ってひぃふぅ、と数える。
「5個、かな?」
あゆは片手を開いて”自称おじちゃん”に見せた。
「はいよ。待ってろ。今焼いてやるから…。」
(あ、そうだよ〜。)
あゆの記憶の中に刻み込まれた”格言”が顔を出す。
「たい焼きは焼きたてが一番だよねっ!」
「おぅ!そうだっ。通だな嬢ちゃんっ!」
嬉しそうな屋台の主人の声が返ってくる。意見があったのが嬉しいのか、最近では珍しくたい焼き好きの子が目の前にいるのが嬉しいのか定かではなかったが。
だが、それを受け取ったあゆには、主人の言葉の意味が判らなかった。
??????
??つー??
??????
「ボク、つーじゃないよ。」
「なんだぃ?」
たい焼きを焼く音でよく聞き取れなかったのか、主人は次々と焼き上がるたい焼きを袋に移しながら聞き返した。
「ボクはあゆだよ。」
あゆは自分の思った通りのことを言った。つまり、主人に”嬢ちゃんの名前はつーだな”と言われたと判断したのだ。
「…う、うちはたい焼き屋だよ?鮎はちょっと…。」
屋台の主人は困惑した顔で辺りを見渡した。
この辺りに鮎の塩焼きをやっているような店はないし、だいたいこの時期、鮎は禁漁期間だ。
「う…うぐぅ…。」
あゆは主人の言葉を聞いて目に涙を浮かべた。
うちはたい焼き屋だがあゆにはちょっとあげられない、と言われたと思ったのだ。
「う、うぐぅったって、うちは大判焼きとたい焼きしか…。」
急に泣き出された主人は訳も判らずおろおろとして、ただあゆと焼き上がったたい焼きとを見比べるばかりだ。
「うぐぅっ!もういいよっ!」
あゆはそう大声で叫ぶと、頬を膨らませて屋台の前から離れていく。
えぐえぐ、と鼻をすすりながら時折”たい焼き食べたかったよ〜”とそれなりに大きな声で訴える。
この調子で商店街中を泣き歩かれたら評判はがた落ちである。
「た、たまったもんじゃない。」
屋台の主人は大慌てで焼き上がったたい焼きを持ってあゆを追いかけた。
幸いあゆの歩く速度はその身長に比例しているようだ。大して走るほどのこともなく追いつくことが出来た。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ったっ。嬢ちゃんっ。」
あゆのダッフルコートの帽子を捕まえる。背中の羽が主人を拒否するようにいやいやをする。
「うぐぅ…。もういいよぉ…。」
「そ、そうはいかねぇ。」
実際困るのはお互い様である。
「お、おしっ。こいつは俺っちのサービスだ。持ってけ。な。」
さーびす?
あゆは依然としてえぐ、えぐ、と続けながら顔を上げた。その目の前には引きつったような笑顔を作っている屋台の主人の姿がある。エプロン姿で少女を引き留めている様は、少し穿った見方をする人ならば警察に通報してしまう可能性すらある。
たい焼きの袋をあゆに押しつけるようにしてそそくさとその場を離れようとした主人は、何の気なしに振り返った。
袋の中身と自分とを慎重に見比べているあゆの姿がある。
年の頃は…そうだな…小学生くらいか?うちの子供と同じくらいかもしれない。
「嬢ちゃん、名前はなんてんだ?」
「だから、ボクはあゆだよぉ…。」
この瞬間主人の疑問は氷解した。
「はっはっは、なぁるほどな。そいつぁ俺が悪かったよ。」
そいつはお詫びの印だ、と付け加え、主人は再び歩き出した。
(小学生に”通”は…わっかんねぇよなぁ…。)
最大の誤解を引きずったまま、主人は一人納得して帰っていく。
後にはたい焼きの袋をしっかりと抱えたあゆが残されていた。
こんこん、と部屋の扉がノックされた。
「どうぞ。」
倉田は極めて事務的に返事を返した。
「先生、302号室の患者ですが…。」
「君、患者さんに失礼だろう?名前で呼びたまえ。」
そう言いながら手早くカルテを受け取る。
「あぁ……この子がどうかしたか?」
看護婦から”容態が……”と答えが返ってくる前に腰が浮いている。看護婦の表情とカルテのデータから自分の役割を瞬時に把握したのだ。この辺りの腰の軽さは悪意を持って語られる”ベテラン”医師のそれからは程遠い。
「急変か?」
7年間なんとか保たせてきたが、もはや体力の限界だろうか?
「いえ、そう言うわけではないんですが……。」
ちょっと妙な傾向が……、と続ける看護婦の言葉を遮る。
「あれはどうしたんだ?」
廊下の隅で数人の看護婦に取り押さえられている女の子がいる。
「あれ?あれは208号室の患者さ……。」
「名前っ!」
びしっと音が出るような勢いで叱りとばす。
「す、すみません。え、えぇと、み、美坂、栞(みさか、しおり)さんです。」
何があったんだ?
倉田はその現場に向かって進路を変更した。
「何をしている?」
「あ、先生。美坂さんが勝手に病室を抜け出して……。」
看護婦は栞の右手をしっかり握ったままで説明した。
「ちょっとだけですぅ。ほんとに、すぐ帰ってきますからぁ……。」
栞は涙ながらに訴えた。
看護婦に掴まれた手を渾身の力を込めてふりほどこうとしている……のだろうか?傍目には全くそのようには見えないが、雪よりも白いその顔はすっかり紅潮している。
「だめです。外出許可が下りないうちは外に出せません。」
「わー、ひどいですー。そんなこと言う人、嫌いですー。」
病院の廊下というものは声が響くものだが、栞の声は弱々しく、響いてようやく普通に聞こえる。
「美坂さんのカルテはあるのか?」
倉田は看護婦の一人に命じて栞のカルテを取り寄せ、眉間に皺を寄せた。
「…美坂さん。美坂、栞さん。」
「はいー。」
長い抵抗に疲れ切ったのか、それとももともとそういう話し方なのか…。
倉田は腰を落とし、小柄な栞と同じ視線にその身を置いた。
「あなたの病名は判っていますか?」
「………。」
栞は空いている方の手の人差し指を口元に当て、うーん……と思案する。
「忘れちゃいました。」
たは、と力のない微笑みを漏らす。
精一杯の嘘が痛い……。
倉田は数秒間目を閉じ、それから周りを見渡した。栞の視線からは、看護婦達がまるで決して越えることの出来ない壁のように見える。その分厚い壁の中で、倉田は決断を下した。
「美坂栞さん、あなたの病気は風邪です。流行性感冒、というやつです。」
倉田の言葉に、看護婦達は勿論、栞の顔にも怪訝な表情が浮かぶ。
「暖かくしていれば病気の進行の心配はありません。ただ、他の感染症と合併症状を引き起こすと大変なことになりますので引き続き入院は継続してください。」
言葉を選びながらカルテにさらさらと文句を書き込んでいく。
「どうしました?」
なおきょとんとしている栞に笑いかける。
「風邪ですから夕食の時間まで外出していいですよ。ただ、風邪を悪化させないように、暖かくすることだけは約束してくださいね。」
はいー、と嬉しそうな声とともにぎゅっとストールを身体に巻き付ける姿がいじらしい。
舌の一つでも出していくか、と思ったが、”ご心配かけますー”と看護婦達に深々と挨拶をしてから駆けていったその姿に、自分の選択の正しさを確信する。
「いいんですか?」
最初に倉田を呼んだ看護婦が心配そうに、小さくなっていく栞の背中に視線を送る。
「ん?私の誤診だ。」
倉田はそれがどうした?と言わんばかりに再び足を歩き始めた。
「…もし、それが問題になったら…。」
倉田の後に続いて歩き出した看護婦が独り言のように呟く。
「私、私が間違えたって言います。」
だから、あの患者さんのカルテの管理は私にやらせて下さい。
看護婦は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
「…名前。」
倉田はいつものように繰り返しただけだった。
<続き>