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1月 6日 水曜日
雪が降っていた。
重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。
「……。」
相沢祐一(あいざわゆういち)はベンチに深く沈めた体を起こして、もう一度居住まいを正した。
屋根の上が雪で覆われた駅の出入口は、今もまばらに人を吐き出している。
白いため息をつきながら、駅前の広場に設置された街頭の時計を見ると、時刻は3時。
まだまだ昼間だが、分厚い雲に覆われてその向こうの太陽は見えない。
確か、出発前に聞いた母親の話では待ち合わせは1時だったはずだが…、と祐一は記憶を辿る。
記憶力は良い方だ、と自分で思っている。
ただ、それを必要なときに引き出せないので、試験の成績には少しも反映しないのだが……。
駅についた直後、メモを片手に飛び込んだ電話ボックスで祐一が聞いたのは、途中の駅でも何度も聞いた”通話中”の音……。
10時から2時過ぎまで4時間続けて電話することはない、と祐一は考えた。ということは、おそらく彼の母親が手渡した電話番号が間違っていたのだろう、と彼は判断した。
まさか息子の安否を心配する母親自身が息子を危険に晒していたとは夢にも思わなかった。
「…遅い。」
再び椅子にもたれかかるように空を見上げて、一言だけ言葉を吐き出す。
視界が一瞬白いもやに覆われて、そしてすぐに北風に流されていく。
体を突き刺すような冬の風。
そして、絶えることなく降り続ける雪。心なしか、空を覆う白い粒の密度が濃くなったような気がする。
(…それとも、俺もいい加減学習しろよ、ってことなのかな?)
過去17年間の人生の中で、母親の”大丈夫”が「本当に大丈夫」、だったことが何度あっただろうか?
(…無いかもしれない…。)
それでも、何故か信じてしまう。
だが、俺は決して”マザコン”ではないぞ、と、祐一は誰にともなく言い聞かせた。
(ま、まぁ結果的に大丈夫だった、と言うのを入れれば…確かに大丈夫だったし、だからここまで生き延びてきたんだろうけどなぁ…。)
だが、祐一はお人好し、と言われることは何度もあった。彼は4月1日の嘘に引っかからなかったことはない、と言っても良い。嘘をついた側が申し訳なくなって白状するほど、彼は物事を素直に受け入れる性格だった。
(つまり、そろそろ世間の荒波を経験しろ、ということなのか?)
転勤が決定したときに、ちらっと耳にした夫婦の会話を思い出す。
「……この際だからどこかに預けて居候させるのもいいかもしれないな。」
「社会性が身につくかもしれないわね。」
とは言うものの…。
(お父様、お母様、あなた方の試練は厳しすぎましたわ、なんて結末は嫌すぎる……。)
最初の試練で凍死してどうする、おい?、と祐一は言葉を継いだ。
(くっそー…。確かにこの電車で間違ってなかったはずだよな〜?)
確かに学校の成績は悪いが、2時間に1本の列車時間を間違えるほど、ぼけてはいないつもりだ。
だとすればやはり母親の言葉を信用したのが悪かった、という結論で間違いない。
記憶をたどってみる。
(……信じた俺が馬鹿だった……。)
彼の母親は「話はつけてあるから」と言っていなかった、と彼の記憶が囁く。
母親の言葉は「先方に話は伝えるから」だった。
つまり…。
(……って、これから話を付けるってことかいぃっ!)
やはり間違いない。
世間の荒波に触れさせようとした彼の両親は、こともあろうに、というか、非常識極まりないことに、荒れ狂う大嵐の中に文字通り裸一貫で放り込んでしまったのだ。
何せ、大方の荷物は明日届くことになっていて、今手元には薄手のセーター一つしかない。
これはまずいことになった。
もう一度ため息混じりに見上げた空。
その視界を、ゆっくりと何かが遮る。
「……。」
雪雲を覆うように、一人の女の子が祐一の顔を覗き込んでいた。
(行き倒れに見えるのかな…?)
だが、その顔には、輪郭には、そして醸し出す雰囲気には、覚えがあるような気がする。
「雪、積もってるよ。」
女の子がぽつり、と呟くように白い息を吐き出したその瞬間、自分の直感が確信に変わる。
「そりゃ、2時間も待ってるからな……。」
雪だって積もる。
ぶるっと身震いを一つすると、身体に積もった雪とともに、見知らぬ土地でいきなり野垂れ死ぬかもしれない、という緊張感も解けていく。
もとよりこの子に対しての緊張感は毛頭ない。
「……あれ?今、何時?」
祐一の言葉に、女の子が不思議そうに小首を傾げる。
「3時。」
「わ……びっくり。」
台詞とは裏腹に、全然驚いた様子もなかった。
どこか間延びした女の子の口調と、とろんとした仕草。
「まだ、2時くらいだと思ってたよ。」
ちなみに、2時でも1時間の遅刻だ。
「ひとつだけ、訊いていい?」
「……ああ。」
最初は物珍しかった雪も、今はただ鬱陶しい。
「寒くない?」
「寒い。」
独特の間合いに早くも馴染んでいる、と祐一は気付いているだろうか?
「これ、あげる。」
そう言って、女の子は缶コーヒーを1本差し出した。それを見て初めて、祐一はこの寒い中で暖をとる方法が目の前に存在していたことに思い至った。
(なるほど、世間の荒波も経験するべきかもしれない……。)
「遅れたお詫びだよ。」
女の子は相変わらず間延びした調子でそう言った。不思議と”2時間の遅刻を100円ちょっとでちゃらにできるかっ!”とは思わなかった。
「それと……再会のお祝い。」
その赤い唇が開くたびに白い空気が漏れだし、缶コーヒーの役割がまた一つ加わった。
「7年ぶりの再会が、缶コーヒー1本か?」
さすがに苦笑が漏れる。
重大な使命を帯びて差し出された缶を受け取りながら、改めて女の子の顔を見上げる。
素手で持つには熱すぎるくらいに温まったコーヒーの缶。
痺れたような感覚の指先に、その温かさが心地よかった。
「7年……そっか、そんなに経つんだね。」
「ああ、そうだ。」
温かな缶を手の中で転がしながら…。
もう忘れていたとばかり思っていた、子供の頃に見た雪の景色を重ね合わせながら…。
「わたしの名前、まだ覚えてる?」
「そう言うお前だって、俺の名前覚えてるか?」
背も伸びた。
声も変わった。
顔だって変わっているかもしれない。
お互いを確かめ合う言葉を、声を、かけあう。
「うん。」
雪の中で…。
雪に彩られた街の中で…。
7年間の歳月、一息で埋めるように…。
「祐一。」
「花子。」
「違うよ〜。」
「次郎。」
「わたし、女の子…。」
女の子は困ったように眉を寄せた。
一言一言が、地面を覆う雪のように、記憶の空白を埋めていく。
「いい加減、ここに居るのも限界かもしれない。」
多少ながらも再会の興奮があったのか、今になって祐一は彼女も傘を持っていないことに気がついた。
これは急いで家に向かった方がいいかもしれない。
「わたしの名前…。」
「そろそろ行こうか」
ベンチから腰を上げる。
ぶるぶるっと身体を揺すらせると、身体に着いていた粉のような雪が、風に吹かれて飛んできた仲間達と合流して去っていく。
「名前……。」
7年ぶりの街で、
「……名前ぇ……。」
7年ぶりの雪に囲まれて、
「行くぞ、名雪。」
新しい生活が、冬の風にさらされて、ゆっくりと流れていく。
「あ……。」
驚きで一瞬大きく見開かれた目が、
「うんっ!」
笑顔を作るためにまた細くなった。
面白くもないが、もうすぐ大きなうねりがやってくる。
記憶を辿る、その姿はまるで良くできた木像のようだ。
だがその脳裏には、あの運命の日が鮮明に蘇っている。
うーん……。
いい天気だ……。
微かに延びをしてみる。
身体中に降り積もっていた雪が落ちていく。
雪だろうがなんだろうが、やっぱり太陽が出ていればいい天気だな。
そんなことを考えて再びとろとろと微睡む。
ぶつっ。
…?
痛いな?
ぴくっと眉を上げて見てみると年端もいかぬ女の子が髭を引っ張っていた。
…全く…。
まぁ、このくらいなら…。
ぶつっぶつっぶつっ!
いでででで…。
完全に目が覚めてしまった。
おい、いい加減に…。
むしりっ!!
あ゛〜〜!!
おちおち眠ってもいられない……。
仕方ない。
諦めて身を起こし、一言文句を言ってやるために冬の寒さの中に身を投じることにした。
「しかし、待ち合わせは本当は何時だったんだ?」
祐一はポケットの中の缶コーヒーを懐炉代わりに使いながら聞いた。
「1時だよ。」
………。
そんな名雪の返事に、自分は間違ってなかった、という安心感と、母親の言葉がまたなんとかなってしまった、という脱力感が入り交じって押し寄せる。
不思議と名雪を責める気は無かった。
「でも、学校を出るのにちょっと手間取ったんだよ。」
名雪は心持ち早足で祐一の後をついてくる。
「ふ〜ん…?あれ?今学校は冬休みじゃないのか?」
北国は冬休みが長いはず、と期待していただけにちょっと裏切られた気分がする。
「学校は冬休みだけど、部活はちゃんとあるんだよ。」
ん?
ぶかつ。一般的にクラブ活動のことを省略してこう呼ぶ。主にスポーツを行う体育会系クラブと文化系の活動をする文科会系クラブに分かれる。
そこまで考えて、初めて明解な答えに行き着いた。
「そうかぁ。文科会系だと、雪は関係ないもんな。」
「ほぇ?」
名雪は大きな目をぱちくりさせて祐一を見ていたが、不意にその言葉が意味することを理解して小首を傾げた。
「祐一、わたしは陸上部だよ。」
今度は祐一が目をぱちくりとさせる番だったが、こちらは衝撃の度合いが大きすぎて次の言葉がなかなか出てこなかった。
「…誰が?」
ようやく出てきた言葉はなお疑問形だった。
「わたしが。」
少し胸を張って名雪が答える。
「陸上部?」
「そう。」
「誰が?」
「わたしが。」
(……このまま聞き続けても、何の疑問も持たずにひたすら同じ答えを返してきそうな、この、のんびりを実体化させたような、名雪が???)
「そうは見えないなぁ……。」
祐一はようやく落ち着きを取り戻すと、しげしげと従姉妹の顔を見た。
「よく言われるよ。」
名雪は別段気にした様子もなくそう言って微笑んだ。
なおも首を振り振り自分を納得させようと努力していたとき、更なる衝撃が祐一を襲った。
「それに、わたしは部長さんだから休めないんだよ。」
……。
(いや、待てよ…。)
祐一はもう一つの可能性に気がついた。
(これから学校は非常に生徒数が少なくて、当然陸上部なんかもひっっっっじょうに部員が少なくて、だから、2年生も一人しかいなくて、人選の余地無く、部長。おし。これで納得。)
「い、いやぁ、大変だなぁ。部員が少ないと、色んな競技に掛け持ちで出ないといけないんだろ?」
「部員が多いから大変なんだよ〜。」
謎は全て後回しだ。
祐一は再び歩き出した。
(…って、後?)
祐一は急に足を止めた。
小走りになって着いてきていた名雪がごちん、と鼻をぶつける。
「祐一、痛いよ。」
鼻の頭を赤くした名雪が抗議の声を上げる。
「っていうか、何で俺が先になって歩いてるんだよっ!」
「ふえ?祐一、道覚えてたんじゃないの?」
名雪は不思議そうに首を傾けた。
「あのなぁ、道覚えてたらあんな寒い中ぼけっと待ってないだろっ!」
と、言いながら気がついた。
「…お、もしかして、身体に染みついた記憶が俺を水瀬家に誘っていたりしたか?」
我ながら大したものだ、と満足する。
こうなると肩に食い込むようだった荷物さえ軽く感じるから現金なものだ。
(帰巣本能とかいうやつかな?だったら、確かに待ってないでそうすれば良かった。)
が、祐一がそう思ったとき、
「ううん。全然逆方向だよ〜。」
と、笑顔の名雪が答えた。
「ぐぁ…。だ、だったらなんで止めないんだよっ!」
こうなると、つい先ほど軽く感じたはずの荷物が重くなったように思えるから現金なものだ……。
「だって、祐一が”そろそろ行こうか”って言うから、どこかに連れてってくれるのかと思ったんだよ。」
名雪は満面の笑顔を浮かべながら、期待のこもった目で祐一を見つめている。
……。
確かに、その言葉は先に立つ者が使うことが多いと思われる。
だが、あの場合、迎えに来たはずの名雪が一向にその場を動かないから名雪の行動を促したに過ぎない。
「名雪…。」
「なに?」
「お前は俺を迎えに来たんだよな?」
「うん、そうだよ。」
名雪はこくこく、と首を縦に振った。
「つまり、俺は道を知らないってことだよな?」
「そうかもしれないね。」
「その俺が、どうしてお前を連れてどっかに行けるんだよっ!?」
「迎えに来てくれたお礼だよ〜。」
名雪はそう言ってまた満面の笑みを浮かべた。
……。
ぽむ。
「?これは祐一にあげたんだよ。」
「そうだ。これ一本あれば2時間の遅刻のお詫びに加えて7年ぶりの再会のお祝いまでできると〜〜〜っても価値のある缶こーひーだ。」
熱を失ってすっかりぬるくなってはいるが、確かにさっきまでは懐炉の役割までこなしていた。なんと1”本”3役の大活躍。
「それをやるから俺を名雪の家までまっすぐ連れて行ってくれ。」
「わたしはいちごミルクの方が好きだよ。」
ぐいっと、今度は冷えてきた缶を祐一に押しつける。
「それに、一度あげたものは受け取れないよ。」
もはや逆らうだけ無駄だ…。
祐一は再び御利益のある缶コーヒーを受け取って、鞄の重さを300gほど加える。
「判ったから道案内を頼む。」
「うん、頼まれたよ〜。」
今度は名雪を先頭に、二人の雪中行軍は再開された。
<続き>