Canon 〜外典〜
  by Ophanim次話
 プロローグ目次




 ぷるるるる、ぷるるるる…。

 面白みのない、初期設定そのままの呼び出し音が続く。

 「はいはい。今出ますからね……。」

 水瀬家の家主、水瀬秋子は決して戻ってくることのない返事には期待せずに声をかけた。

 「もしもし、水瀬です……あぁ、姉さん。」

 電話は秋子の姉からだった。

 「ごめんなさいね、突然電話して…。」

 「いいえ、何もしてなかったから…。」

 電話に突然も何もないものだ、とは決して思わない姉妹はひとしきり会話を続けた。

 「それじゃあ、この辺で……。」

 「あの、姉さん…?」

 秋子はさすがに呼び止める。ここで切ってしまったら現代版の白ヤギさんと黒ヤギさんだ。もっとも、あのヤギさん達が昔のものなのか、姉妹なのかどうかも知らないが…。

 「何かしら?」

 「…何か用事があって電話したのではないんですか?」

 ほうっ、と息を飲む声がする。

 「そうだったわね。」

 「そうでしたわ。」

 あなたがしっかりしてくれているから助かるわ、昔から…と姉が感謝の言葉をもらす。

 「私達、これから海外出張なのよ。」

 転勤なの、と続ける。

 「それはまた…大変そうですね…。」

 秋子は姉がこのペースでやっていける職場に移れることを願った。

 「それで、どこに行くんですか?」「それで、祐一のことなんだけど…。」

 二人の声が一瞬重なった。

 「あ、ちょっと待ってね…。」

 折れるのはいつも姉の方だ。

 姉がごそごそ、と手帳を取り出す音がする。忘れっぽい姉を心配した秋子が、姉の結婚式のときにプレゼントしたメモ用手帳だ。後生大事に使いそうだったので毎年新しいものを送っているのだが、中身だけを入れ替えて大事に使っているらしい。

 「えーとね、アメリカの隣のイギリスの隣のフランスの隣の………。」

 ページをめくる音が続く。

 「…の隣らしいわ。」

 「地球を2回半くらい回ってるわね。」

 聞いているだけで頭がふらふらする。

 姉の夫が面白がって話した内容を忠実にメモしたらしい。そういうところに惹かれたらしいのでなんとも言えないが…。

 「それで、いつ転勤なんですか?」

 「明後日よ。」

 ………………。

 「それでね、祐一のことなんだけど…。」

 「お、お姉さま?」

 海外転勤の日が明後日まで迫っているというのに、この様子では引っ越しの準備も大して進めていないだろう。秋子を動揺させることが出来るのはこの姉だけでは無かろうか?

 「…海外は嫌だって言うのよ。秋子のところで居候させてもらえないかと思って…。」

 「私は構わないんですけど…。」

 秋子の顔が曇る。

 「…まだ、早いと思います…。」

 そう呟いた秋子の声は小さくて、姉の耳には届かなかった。

 「じゃ、お願いね。」

 姉は心底嬉しそうな声をあげる。

 「お、お、お姉さま?」

 「そうそう、言い忘れていたんだけど…。」

 切れかかった電話が戻ってくる。

 「祐一、もうすぐそっちの駅に着くと思うから。」

 言葉を失う秋子の鼓膜に、電話の切れる音が届いた。



 ぱりん

 ガラスの砕けるような音が、頭の奥で響いた。

 (……行かなくちゃ……。)

 そう心の中で呟く。

 でも、どうやって?

 (起きればいいんだよ。)

 そうかなぁ?

 身体を起こすと、意外なほど簡単に起きることが出来た。

 「あれ?」

 試しに手をぶんぶん、と振ってみる。

 元気だ。

 「行かなくちゃ。」

 今度は声に出して言ってみる。

 部屋の中に木霊が残る。

 「だって、約束だもん。」

 とてとてとて、と走り出してからまた大慌てで戻ってくる。

 「忘れ物〜。」

 びたんっ

 慣れないことをしたので足がもつれる。

 「痛いよ〜。」

 目に涙を浮かべながらも、忘れ物をしっかり握りしめて、また駆けていく。

 慌ただしく足音が去っていった後、永遠とも思える静寂が部屋を満たしていった。



 ん?

 違和感がある。

 異質な者が入り込んだな?

 のそり、と顔を上げてみる。

 外は相変わらずの喧噪の渦だ。

 全く、人間って奴は……。

 世捨て人のような台詞は世捨て人のような風貌の老人から発せられても少しの違和感も無かった。

 知ったことか…。

 老人は久々に身体を伸ばした。

 部屋の時計が約束の時間を差しても、待ち人は一向に現れる気配もない。

 不意に電話が鳴った。

 電話で起こされなかったことが救いか?

 老人はこの文明の利器が大嫌いだった。

 「……うむ。判った。」

 今日は休ませてくれ?

 休むも何も、もう刻限は過ぎている。

 不機嫌そうに老人は再び体を休めた。

 全く、人間って奴は…。

 そして、目を覚ます前のように無心に眠ろうと目を閉じる。

 だが、気づいてしまったという事実は動かし難かった。

 その結果生じるであろう結末は動かせるにしても……。

 ………。

 知ったことか…。

 もう一度繰り返して、再び顔を俯かせた。

 外は喧噪の渦だった。



 あ!

 懐かしい薫りがする。

 それと時を同じくして悲しみの薫りもその強さを増す。

 「行かなくちゃ…。」

 武者震いを一つする。

 「何しに行くと言うのだ?」

 ぐいっと首を捕まれて引き戻された。

 「今のお前に出来ることなぞ無いわ。」

 その通りだ。

 未熟な今の自分に何が出来るというのか?

 それでも…。

 幼い使命感に突き動かされた激情は止まるところを知らない。

 かぷっ!

 ………。

 「ぃーーーーっ!!!

 とととととと…。

 「いたた…。本気で噛みおっって…。」

 だいたい、どうやって会話を切り出すつもりなんだか…。

 その眼前に信じられない光景が広がる。

 「ふぉ…。」

 なるほど…。

 激情がなしえた可能性の大きさに少なからず感心する。

 「じゃが、如何にも幼い…。」

 色々なものが欠落したまま駆けていくその姿を目で追いかける。

 「ん、まぁ、まずは噛まれたところが治ってからじゃな。」

 急ぐことでもあるまいて…。

 「どうせ何も出来ないんじゃからな…。」

 その言葉が既に偽りになっていることには敢えて目を向けず、怪我の治療に専念するふりをしていた。



 ざわっ…。

 空気が喜びと切なさを運んできた。

 「…なんだろう?」

 その正体を知っていて敢えて心を閉ざす。

 「無駄よ。」

 厳しい言葉が優しい口調で語られた。

 「もう気がついてしまったことは、変えられないわよ。」

 「…知らない。」

 反発してみたところで結果は変わらない。

 彼女の最も大切な人の言葉はいつも正しい。

 「行くの?」

 「………。」

 こく

 「そう。」

 こくこく

 「…だって…。」

 じっと彼女の言葉を待つ。

 「…もう、学校始まるもの…。」

 強情な言葉にも少しも困った様子はない。

 「そうだったわね。」

 こく

 「制服、出さないとね。」

 ………。

 それには応えずじっと外を見る。

 少女の面影を残す瞳には、降り始めた雪以外のものも写っていた。



 雪は嫌い…。

 外に出られる可能性が低くなるから…。

 降り始めた窓の外の雪を眺めながら、少女は小さくため息をついた。

 どっちにしたって、外になんか出ないけどね。

 恨めしそうに空を見上げる。

 あと…もう少し…。

 どうせなら、この街が埋もれるくらい降ればいいのに…。

 今度は街に視線を移す。

 ?

 とととっとととっ…。

 視線に割り込んでくる、小さな人影。

 …なにをしてるんだろう?

 少女の視線の中で、降り始めた雪に足を取られ、まろびそうになりながらも遮二無二進む姿がある。

 ………。

 そういえば…。

 これはそういうときのために使うものなんだよね…。

 ベッドを被っているストールを手に取る。

 「そうだよね。」

 声をかけることを許されない人に向かって話しかける。

 神の目を盗むような慎重さで、少女は一歩を踏み出した。



 気がついたら涙が流れていた。

 ?

 いつからだろう?

 全然覚えがない。

 何に感動したわけでもない。

 悲しいことを思い出したわけでもない。

 むしろ、そういえば、こんな日だった、と思い出したのは自分の涙に気がついてからだ。

 琴線に触れる、という表現が正しいのか?

 この風景が心の奥底にある琴線をつま弾いたのだろうか、と考えてみる。

 ………。

 それとも……。

 何かが始まる予感?

 均衡の取れていた世界が乱される、悪しき予感…。

 関係ないといいけど…。

 涙を拭いて、何事もなかったかのように本に目を移した。



 「…と、いうわけなの。悪いんだけど、名雪、帰りに駅まで迎えに行ってくれないかしら?」

 秋子は要点を掻い摘んで娘に伝えた。学校で部活動をしていた娘に連絡を取るために、数回職員室に電話を入れた後、ようやく繋がったのだ。

 「うん。判ったよ。頼まれるよ。」

 電話の向こうからいつもと同じ、元気な張りのある声が帰ってきて、秋子はほっと一安心した。後は、先方の問題だけど…。

 「それで、待ち合わせの時間とかは?」

 ちらっと時計を見る。

 確かここに1時頃に着く電車だったはずだ。

 まだ後30分以上ある。

 「1時頃に駅に行ってもらえばいいと思うの。」

 「ふぇ…お腹ぺこぺこ…。」

 情けない声が返ってくる。

 そういえば、今日も朝は抜いていたはずだ。

 「もう少し早く起きてくれると助かるんだけど…。」

 名雪は朝の目覚めが遅い。朝が遅いから朝食を抜く。朝食を抜いて学校まで走るからお腹が空く。お腹が空くから間食をする。間食をするから夜食べる量が少なくなる。夜食べる量が少ないので代謝に十分なエネルギーが少なくなり、朝は起きられない……。

 あからさまな悪循環である。どこかでこのループを絶たなければならない。

 とりあえず間食の線を絶つのが最もいいだろう。

 秋子は常識的な判断をした。

 「今日は少し遅めにお昼にしましょう。それでいいかしら?」

 「うん、判ったよ。じゃあ、わたしも今日は少し早めにイチゴサンデーを食べるよ。」

 電話は切れた。

 ふぅ………。

 「今日のお仕事はお休みしないといけないわね…。」

 秋子にしては機敏な動作で再び受話器を取り上げると手早くダイヤルする。

 欠勤を申し込む旨連絡すると、しばしの沈黙の後、当然のように了承された。

 ほぉっとため息をついて時計を見上げる。

 既に12時を回っている。

 休むも何も、既に遅刻は決定である。

 原因は…。

 ぷるるるる、ぷるるるる…。

 「はい、水瀬です。」

 「あ、私だけど…。」

 ……これだ。

 「祐一、もうそっちについた?」

 「お姉さま、電車は多少遅れることはあっても1時間も早く着くことだけはありませんわ。」

 秋子はここ数時間繰り返された姉からの電話の応対で一歩も動くことを許されていなかった。

 「でも、もう心配で…。」

 「私は姉さんの荷造りが心配です。」

 秋子は姉の家の現状を想像した。

 全くいつも通りの家具が並んでいる中に、出番を待ちわびている引っ越し用の段ボールの箱だけが整然と並べられているに違いない。

 「お引っ越し屋さんがやってくれると思うけど…。」

 電話の向こうから少しだけ迷ったような声がする。

 「前もそうだったし…。」

 「この前は国内のお引っ越しです。その前も。」

 秋子は不安が的中したことを知ったが、それと同時に言い知れぬ恐怖感が襲ってきていることにも気がついていた。それが何なのか、まだ、判らない…気がつかない…いいえっ!絶対知らないっ!

 「あれぇ?でも、うちの人は”お前は何もしなくて大丈夫だから”って…。」

 ぐぁんっ!

 恐怖感は急速に具体的な形を取った。

 (そう………そうだったわ……。私が心配することは、何も無かったわ……。)

 判っていたのに……。

 …本当に、お姉ちゃんはいい人見つけたねっ!

 …でも、私だって負けてないよ?

 …絶対絶対いい人見つけるんだ。


 少女の面影を残す自分がそう誓っている、記憶……。

 「ご、ごめんっ!秋子っ!ごめんねっ!お姉ちゃんが悪かったよっ!

 電話の向こうで必死に叫ぶ声がする。

 だが、その声はもう秋子の耳には届かない。

 …どう?いい人でしょ?

 …うちの人だって負けないよ〜。

 …私の人だっていい人だもん。

 …それに、うち、今度子供産まれるんだよ〜。だから、幸せ度はお姉ちゃんが…。

 …私にだって産まれるわよ。

 …えっ!?

 …多分、お姉ちゃんの子と同じ歳になるわよ。

 …ふぇ〜、負けたよ〜…。

 幸せだったのに………。

 ……水瀬さん、電話っ!

 あの日から……。

 ……ちょうど、良かった……。

 ……名雪に、これを…。

 な…ゆ…き……。


 記憶の中にその名が現れたとき、秋子の視界は急速に光を取り戻した。

 「………ごめん、ごめんね…。」

 「姉さん、どうかしたの?」

 子供のように嗚咽を漏らす姉を優しく宥める。

 「ごめんね、秋子…。」

 「私は大丈夫です。」

 私達は大丈夫です、と心の中で言い直す。

 「でも…。」

 「祐一さんが心配なんですね?でも、きっと大丈夫ですよ。」

 秋子は自信を持ってそう言った。

 何となく、そんな気がする。

 あの子なら…あの人なら…。

 「そうね。あなたが言うなら、きっとそうよね…。」

 姉は自分に言い聞かせるようにそう繰り返した。

 「ごめんね、秋子。もう電話しないわ。あなたに任せる。全てを…。」

 きっぱりと言う。

 こういう時の姉は本当に強い。

 「えぇ。しっかりお預かりします。」

 その後数度の別れの挨拶の言い合いを終えて受話器を置く。

 「さて、遅いお昼ご飯の準備でもしましょうかね…。」

 自分を促すようにそう呟いて、もう一度時計を見上げる。

 「……。」

 ごめんね、お姉ちゃん、と心の中で頭を下げた。

 自分ではすぐに立ち直ったつもりだったが…。

 その間ずっと電話口で謝り続けた姉の優しさを感じずにはいられない。

 電話を受けたとき、確かに12時を少し回ったばかりだった時計は、既に3時をさしていた。


<続き>


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