子供の頃。あまりに幼くてうろ覚えだが、多分小学生の低学年。友人数人と遊んだ帰りのこと。なぜか散々バカにされて言い負かされた私は、遠く(50m以上離れていた)で私に向かって舌を出すその友人に向かって石を投げた。ほとんど威嚇のつもりで当てるつもりはなかった(と思う)。しかしあたってしまった。あたってしまって、泣き出したそいつを見て大変なことをしたとも思ったが、ざまぁみろとも思った。泣きながら走り去るのを見て、自業自得だなどと思ったのだろうか。
その日の夜、私はこっぴどく親に怒られた。私を叱るのは、もっぱら母親の方だった。褒めるのも母親の方だったが。何を言われたのかははっきりと覚えていないが、私が「あいつの方が悪い」と反論したところ、ひどく悲しそうだったのを覚えている。私が罪を理解できないとわかった母は、三日間に渡って私を無視した。それが正しいやり方なのか、今もって私にはわからない。ただ、子供心に「自分はそれほどまでに悪いことをしたのか」という思いを抱いたことだけは確かだ。その友達との関係は結局修復することはなかったが、私はその時に他人の感じる痛みと、痛みを与えたときの代償がいかなるものかを学んだように思う。
親とは、そういうものだ。真っ白な子供に、常識とはいかなるものか、社会の中で生きてゆくには何が必要で何を大切にしなければいけないのか。自分の子供が「世間の常識」でいうところからはみ出したら、それがいかなる結果をもたらすのか、伝えなければならない。翼を持って生まれる鳥でも、親鳥が羽ばたくのを見て練習しなければ飛ぶことができないように。人間社会で生きるために何が必要で何が大切なのか、それを教えるのが親というものだ。そして成人するまでは何に変えても(恐らく命を懸けて)育て上げる義務がある。そうでなければならないと思う。少なくとも私はそのように育てられた。親とは、そのような存在だ。
今回は「最近の奴は親に対する礼とか感謝の心を知らない」とかいう話ではない。その逆。「最近は親の方に問題がある」と言うことである。親は、もしも成人前の自分の子供が社会に対して罪を犯した場合、無償の慈悲でもって守らねばならない。そうでなければ他に守る人がなくなってしまうからだ。ところがニュースを見るとどうだ。パチンコに熱中して車に置き去りにした子供を殺してしまう親。体罰と称してストレス解消した挙げ句に子供を撲殺する親。躾と称してベランダに子供を縛り付けて衰弱死させる親。甘やかしすぎてしまいにシャブ漬け、乱交パーティーを黙認する親。ペンギンが見ていたら「あいた嘴がふさがらないよ」と嘆くことだろう。「マジ本気?」である。わけわからん。
本題にはいる。倉木麻衣嬢の新曲「Reach for the sky」を聞いていたときに目に入ってきたニュース。絶縁状態にある麻衣嬢の父親が、麻衣嬢の子供の頃に撮ったビデオを家族に無断で販売しようとしたという。幸いなことに、麻衣嬢の所属事務所が裁判所に肖像権の侵害で販売差し止め要求、受理され、そのビデオは出回ることはなく事態は収束しそうである。事情を全く知らない人のために説明するが、麻衣嬢の父親は元歌手(俳優?)で、全く売れなかったらしく、麻衣嬢が物心つく頃には酒浸りで家庭は荒れ放題だったという。麻衣嬢の母親は愛想を尽かし、父親の方も別の女を作ってほとんど別居状態だったらしいが、麻衣嬢が売れ出した最近になってやたらと「倉木麻衣の父です」とか言ってそれをネタにマスコミに露出してきたのだ。麻衣嬢の家ではもはや父親の話題はタブーとなっており、麻衣嬢自身もほとんどその存在を「負い目」として背負っているようだ。はっきり言えば麻衣嬢にとって父親とは迷惑な存在でしかない。オフィシャルホームページの麻衣嬢による日記にもそのようなことが書いてある。ところが麻衣嬢の父親、麻衣嬢が売れれば売れるほど増長して、麻衣嬢の目の届かないところでゲリラ的活動を展開。麻衣嬢初のミュージックビデオ・DVDが発売されるに至って、「倉木麻衣 子供の頃のマルヒ映像」とか言って自分が撮ったとされるホームビデオを販売(しようと)する始末。それを聞いた直後、私の心には怒りしか生まれなかった。もしかしたら本気で麻衣嬢を盛り立てようとして自分は悪役に徹しているのかもしれなかったのだと言う私の甘い期待も、この父親に対するほんのちょっとの哀れみも消し飛んだ。だめだ、こいつは。
或いは、欠けている半分の愛を求めることが麻衣嬢の成功に繋がっているのかもしれない。しかしそうだったとして、そんな例はこれっきりにしていただきたい。麻衣嬢の澄んだ声が響くたびにいたたまれない気持ちになるのは、何ともやるせない。これからも麻衣嬢にはかわらぬ声援を送る。父親の方は……もしもほんとうの親なら、もうこれ以上マスコミに露出しないで頂きたい。もはや嫌悪しか抱けない。麻衣嬢にとってはマイナスイメージでしかない。子供の幸せを願うなら、親の「愛」を示すならば、もう出てくるべきではない。
産まれてくる子供は、親を選べない(親も産まれてくる子供を選べないが、麻衣嬢のようなケースでは子育てをしていない親の立場でものをかんがえるべきではないだろう)。生まれてきたならば、出来ちゃった婚だろうが、苦労の末に産まれた子供だろうが、等しく親の無償の慈悲を受けるべきである。この世で唯一、恥ずかしげも無く、それは私が「この世で唯一普遍の愛」と言い切れる。親とはそういう存在でなければならないという確信がある。 根拠? ではあなたは、なぜそこにいるのか。なぜ今あなたは存在しているのか。なぜ生きていられるのか、生を受けたのか。あなたはどこからきたのか。
無視され続けて三日目の夜、私は泣いて母親にわびた。子供だった私は他に方法を知らなかった。何か弁解したかもしれないが、覚えていない。泣いて謝っただけだったかもしれない。とりあえずそうすることで自分の非を認めた。特権というか、最終手段というか、ずるいやり方だと思うが。その日の夜、私は母と久しぶりに一緒に寝た。温もりは幻想ではない。そして、心でも感じることが出来る。それが親というものだ。